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深大寺あたりを散歩して

11/30


友達が病院で心電図?を2時間ほどつけたまますごし、また病院に戻りデーターをとるというのに付きあい、病院近くの神代植物公園で2時間ほど暇をつぶそうということになりました。


だけどあいにくと休園日で、深大寺あたりを散歩することにしました。
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このあたりは、まだ自然がそのまま残っている所です。


木々が紅葉していて、落ち葉を踏みしめながら散歩をしました。


公園だけでなく、畑もかなりあり、農産物の直売所もありました。


丁度、雨あがりだったためいつもより空気がとてもきれいなような気がしました。


すっかり葉が枯れてしまうと厳しい冬が訪れたということなのでしょうか?


まだまだ紅葉が充分楽しめます。


途中、木工細工のお店で和順庭のプレートになる天然自然木の板を¥100で買いました。

 この辺りは三鷹市になるのでしょうか?最近道路が拡張されたようで、自動車用の二車線づつ四車線の道路の他に、歩行者用と自転車用の道路があります。


自転車と歩行者が安心して通れるようになっています。


また、ところどころに駐車できるスペースもあり、よく考えられています。


用地さえあればこのような自動車・自転車・歩行者専用道路が備わっている道路はとてもいいと思いました。



予算さえあるなら、年度末になると毎年のように道路を掘り返し予算を消化しているような無駄な工事をなんとかして、恒久的にもつような道路を計画的につくれないものかと思うのですが。




帰り道、青梅街道のけやきの紅葉もきれいでした。

 通りかかった園芸店や花屋さんは、駐車スペースさえあればほとんどといっていいぐらい行っているのですが、いつも通りながらどうしても開店時間には寄れないお店があって気になっていた青梅街道沿いのその「芝勝」というお店に寄りました。
和順庭に飾る可愛いうさぎの置物やだいもんじ草の苗などを買い、帰ってパソコンをしました。
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狭山市博物館

和順庭はここですが

大きな地図で見る


11/28(土)その和順庭へ行き、ねぎを植え替えたり、冬で何もかも枯れてしまわないうちに、11月の和順庭を写真に撮りました。
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和順庭の近所を紅葉を見に散歩。トトロの森や遊歩道など散歩する所には困りません。







ねぎを植え替えて



紅白大根の収穫



たまねぎ



キャベツの苗とナスタチウム



冬桜に花が咲いて

どうだんつつじの紅葉


 

花手鞠がまだきれい




南道路から和順庭を眺めて


パパガーデンのにんにく・らっきょう


ブルーサルビアとパイナップルセージ



北道路から和順庭を眺めて



マーガレットとチェリーセージ



ラベンダー畑





日本庭園

それから狭山博物館へ。西武池袋線の稲荷山公園の近くにありました。

より大きな地図で 旅行の過程の地点登録 を表示

博物館の中の閉店まじかのレストランで野菜カレーときつねうどんでおくればせながらの昼食。


夕暮れ迫る公園でフリスビーで遊んだり、倒立やでんぐりがえしをして芝生の上で久しぶりに運動しました。夕暮れの中、落ち葉を踏みしめて秋から冬への季節の移り変わりを感じました。
落葉樹は、紅葉し、葉が散って落ち葉のじゅうたんとなり、それが堆肥となって樹木の栄養となります。自然の循環です。




それから田無で買物をするつもりだったのですが、すでに開店時間を過ぎて閉店となっていたので、西荻窪へ。




メキシコ料理の「ホットチリ」というるお店
で、ジャンバラヤンやアボガドのサラダなどとても美味しかったです。それから買物をして帰りました。
 ホットチリの公式サイトはここ

事業仕分けお疲れ様でした。




 寒くなると樽を出してきて、どっさり白菜をつけこむ。今年もやっと漬けた。昨日は、久しぶりに暖かな日だったので眼鏡を直しに行って、ついでにお歳暮の売場を眺め、久しぶりに買物をし、デパートのキムチ売場でキムチもつけてみようと漬込み用のいわしのエキスや唐辛子、あみの塩辛など買い求めて帰って漬けた。

テレビをつけると、事業仕分けのことを連日やっている。今日は最終日だという。寒い中毎日の仕分け作業、仕分け人の方々本当にご苦労様でした。それにしてもテレビや新聞の報道もだいぶ冷静に分析するようになってきたような気がする。

科学者対仕分け人という闘わせる構図をつくるような報道をするのではなく、どこに問題点があり何が指摘されたのかというところも私達は知りたいと思う。仕分けのテレビ中継があれば見たいとも思った。
 
 朝日新聞科学欄によると、25日東大理学部の緊急討論会で「スパコンの仕分け結果をよくみると、けっこう的を得た指摘がされている。我々は仕分け反対と訴えるだけでなく、何らかの真摯な返答をすべきではないのか」という質問が飛んだということがでていた。

 『次世代スパコンは総額約1230億円を投じる国家プロジェクト。12年に毎秒1京(一兆の一万倍)回の計算速度を実現し04年秋までに2年半にわたり地球シュミレーションが誇った「世界一」を奪還するのが目標だ。

だが当初から達成を危ぶむ声があった。今年5月にはNECと日立製作所が開発から撤退。当初描いたシステム構成は根本的に変更され、開発企業は富士通だけになった。

すでに545億円が費やされ、来年度からは本格的な製造段階に入る。仕分けでは「重大な変更があったのに継続が妥当と判断したことに説明が必要ではないか」「外国との開発競争を急ぐあまり、無理なスケジュールを組んでいるのではないか」との論点が示され、仕分け人も「一度たちどまって考え直した方がよい。」と指摘した。

スパコンを使う科学者団体は、仕分け結果に「国際競争力を失う」などと反論したが、指摘については「事業を進める文化省や理化学研究所が説明すること」とした。

大型プロジェクトには、一度走り出すと止まらない大規模公共事業のような側面がある。仕分けで廃止を言い渡されたGXロケットも、当初05年度だった初号機打ち上げ予定は11年度に遅れ、約450億円とされた開発費もすでに官民で約700億円に膨れ、当初描いた「安くて国際競争力のある商用中型ロケット」の実現は絶望的になったが、開発が継続されてきた。』と書かれている。

仕分け作業では、スーパーコンピューターは開発から撤退した企業があるのに当初の計画通りでよいのか?と問い、宇宙開発委員会で経済性や将来性に厳しい指摘がでたのに自民党の一部議員の主張で続いてきたGXロケットを見送りとした。

 おもいやり予算などの防衛費もまた仕分けの対象となり、知らなかった事実があきらかになってきた。今までメスがいれられなかった所も仕分けの対象となり、しだいに国民にも税金の使われ方がわかるようになってきた。

予算の時期だけ陳情し、予算を獲得すると国民の税金であることも忘れ、報告義務も説明責任も見直されることもなくきた自民党政権よりは、ずーと国民の立場にたって政治が行われていると思う。鳩山政権がんばれ!

事業仕分け 科学技術予算も同じ土俵で

 

 今まで各省の大臣が予算さえ通してしまえば、それがどのように使われようがいっさい問われなかったため、できるだけ大臣などに顔のきく陳情して予算のとれる天下り官僚を雇い、予算をとろうとした。そのため天下りの温床となるなどの問題が出てきた。国民の税金を湯水のように使おうがどこからも何も言われなければ感覚が麻痺し、与えられたポストにあぐらをかいているだけで済んでしまった。

それが、政権交代によりどの省も仕分け人に同じ土俵で厳しく国民の税金の使い方を問われ、無駄だと判断されれば国庫に返納されてしまう。それだけ国民の税金を使うという意識をもっていて説明できなければ、ばっさりと斬られる。科学技術の予算も、防衛省の予算も容赦なく判定される。

どの省も同じようにふるいにかけられるこの事業仕分けは、国民の税金であるという意識を常に持たせるためにもなくてはならぬことだと思える。





 先日、事業仕分けで科学技術予算が廃止、縮減対象になったことに科学者からの反発が相続いているという。

政府主催の天皇在位二十年祝賀式典で祝辞を述べた理化学研究所の野依良治ノーベル化学賞受賞者などは、事もあろうに野党自民党に泣き付いて何とかしてくれと言ったというから驚きである。

スーパーコンピューター・GXロケット・地球ダイナミックス研究・大型放射光施設スプリング8を始めとする大型事業から、広く研究者に支給される資金まで、多くの項目が「廃止」や「縮減」とされた。科学技術予算はこれまで成長戦略の象徴として特別扱いされてきただけに研究者の間に反発と動揺が広まった。

有識者議員や日本学術会議、大学学長会からの声明や表明などが相ついだ。「国家存亡にかかわる」とか「世界から取り残される」「取り返しのつかない事態になる」「将来に禍根を残す」など。ノーベル賞受賞者が揃って鳩山大臣へ申し入れに行ったりしている。



私は、いい加減な税金の使いかたをしないためにも、これからもどれも特別扱いせずに同じ土俵にのせて、厳しく仕分けを行ってもらいたいと思っている。税金を使う以上、いつでも国民に説明できるようにすべきだし、無駄づかいも慎むべきである。

縮減や廃止となった事業もさらに行政刷新会議?で審議されどうしてもというのは復活する道もあるのだから。すぐに結果がでないけれども日本の国としてどうしても予算をかけて開発・研究していくというものについては、政府のめざす国家ビジョンとして予算を認め保障していくようにすればいいと思う。政府が認める研究者だけ集めて政府の研究機関を設置して国家プロジェクトの別予算として政府あるいは国家戦略室が管理していくという方法もある。

 誰だって日本の国が科学技術の最先端を行き、各国をリードしていってもらいたいと思っているはずだが、それと国民のためではなく利権がらみの無駄づかいを認めることとは別であるはずだ。

税金をかけていくからには、予算が認められてから国民のために意味のある使い方をしているかが問われるのは当然であるといえるし、それが説明できぬようないい加減なものは認められないのはもっともだと思う。

今まで「寄らば大樹の陰」で、説明責任を果たさずにきていたことのほうが問題だということを認識してもらいたいと思う。鳩山政権が国民から見えるようにオープンにこの仕分け作業を行っているそのことを多くの国民が支持しているのを忘れないでもらいたい。

13 日航機墜落の真相は?爆発は相模湾上空。尾翼落下は下田沖




 相模湾で垂直尾翼が発見されたということは、羽田を飛び立った123便が相模湾上空で何らかの衝撃を受け垂直尾翼を失い、制御不能のまま飛行していたということになる。
その後の捜索でこの垂直尾翼は相模湾で見つかり、尾翼落下は下田沖とみられている。 

 『日航機墜落事故 東京-大阪123便 「新聞見出しに見る20年間の記録」』 http://www.goennet.ne.jp/~hohri/n-index.htm

の事故直後の8月17日の新聞の見出しには、「 墜落日航機 垂直尾翼、空中で分解後 中央部だけで迷走 垂直尾翼落下 伊豆半島と大島間 発見漂流物は20ヵ所、30片 日米合同調査団が現地入り (毎日)」「 漂着した破片客室天井の一部 第四エンジンも発見(毎日) 」「尾翼落下は下田沖 海流で推定 (山陰)」とある。

また、この 「20年の記録」には、「在りし日のJA8119と、垂直尾翼を失って飛行する事故機 」として垂直尾翼を失った日航機 が秩父大滝上空を飛行しているのが写真に撮影されている。

垂直尾翼が飛ばされた(外部的要因しかない)


埼玉県秩父市大滝は群馬県御巣鷹山とは直線距離にして両神山を挿み、すぐのところにある。

これは、8月16 日の新聞見出しの「写真に垂直尾翼なし 会社員撮影「動かぬ証拠」と断定 航空関係者 (読売)」とあるものと思われる。

相模湾上空で何らかの異状が発生した場合、機体のコントロールが利くようであれば当然羽田へひき返すか、最も近い横田へ緊急着陸するだろう。それがなぜ御巣鷹山の方へ向かったのか?

爆発後横田基地へ緊急着陸する手はずが整っていたのに直前に拒否されて御巣鷹山方面へ向かったとか、自衛隊機2機に誘導されて御巣鷹山へ向かったとか言われているが、なぜ相模湾から御巣鷹山へ行ったのかについてはいまだ不明である。

操縦不能になり機体を安定させるため車輪を下ろし、流れにまかせるように漂いながら着陸できる場所を探していたのだろうか?


爆発後から墜落まで 
 
 「123便は相模湾上空で垂直尾翼の大半を失い、同時に油圧4系統全ても切断されて徐々に操縦ができなくなっていった。もちろん、乗員は原因について知るよしもない。

焼津市上空を通過したあたりから次第にダッチロール(機首の横揺れと左右の傾き)が激しくなり、右に60度、ついで左に50度も傾いた機長は「バンクそんなにとるな」と注意するが、このときはすでにパイロットの思い通りの操縦ができなかったと推察される。

 ダッチロールによる機体の揺れで、風切り音が笛の音のように不気味に聞こえてくる。フゴイド運動(機首の上下運動)も加わり、15度から20度も機首が上向き、今度は10度から15度も機首下げの状態を繰り返した。

運行乗務員の思うように上昇、降下、旋回もできず、当初、東京航空交通管制部に要求した大島経由で羽田空港に引き返すこともできない状態になっていた。123便は右に大きく旋回し、北の富士山の方向へと飛行を続けていく。」


「操縦室では機体の操縦に次第に慣れ、左右のエンジンの操作がスムースになり、機体も安定し始めていく。このころ、乗員同士の会話では酸素マスクをつけるかどうかのやりとりがあるが、酸素マスクをつけないまま最後まで操縦を行う。乗員が酸素マスクをつけていなかったと考えられる理由は、酸素マスクをつければくぐもった声になるが、そうなっていないからである。

航空機関士と客室乗務員のやりとりでは、壊れた場所の確認と酸素マスクの話に移っていく。航空機関士は日航との会社無線(カンパニー)で「アールファイブ(R5=右側5番目)のドア、ブロークン」と報告している。これが当初、事故原因だとして発表された。

 機体の調整は左右のエンジンを噴かしたり、絞ったりしながら失速しないように飛行を続けるが、機体のダッチロール、フゴイド運動に対しては、車輪を下ろすことで安定させようと試みている。

一度、車輪を下ろせば油圧がないため、二度と上げることはできない。車輪が下ろされると空気抵抗が強くなり、速度が下がり、失速につながる可能性がある。それでも機体を安定させることが大事であったのだろう。

失速を防ぐためにはエンジンの推力を増加させる必要がある。大きな推力を出すと、左右のエンジンのバランスが難しくなり、山梨・大月市付近では大きな旋回をすることになる。

 7000フィート(2100m)あたりまで降下すると、今度は周辺の山に気をつけねばならない。周辺には雲取山(2017m)、甲武信ヶ岳(2475m)、八ヶ岳(2899m)がそびえている。゜山にぶつかるぞ」「ライトターン」と指示を出し、「マックスパワー」と最大限に推力を上げて危機を乗り越えていく。

 操縦室からは東京航空交通管制部に何度も「操縦不能」を伝えている。羽田空港の管制も加わって123便に周波数の変更を指示するが、123便は操縦操作に追われて自分自身の位置が分らなくなっていた。

羽田管制は「熊谷(埼玉県)の西、25マイルだ」と伝える。秩父山系の埼玉県大滝村あたりを飛行していた。

 123便には最期が刻一刻と近づいていた。長野県の川上村、南相木村に少し入ったところで右に旋回し、御座山をかすめて御巣鷹山方面へと向かっていく。川上村の梓山地区では農作業中の人たちが、頭上をゆっくり旋回していく123便を目撃していた。

目撃者は「何か変な感じだった」と123便の飛行状況について証言している。ただ、垂直尾翼を半分以上失い、車輪を出して飛んでいるところまでは、目撃者の多くは確認していない。

 機体は速度が変動し、エンジン推力も大きく変動している。もはや、乗員による操縦操作は不可能となっていた。墜落時には速度265ノット(時速490km)で、後に「U字溝」と名付けられた尾根の木々に翼端やエンジンが接触し、水平尾翼は脱落した。

この時点でボイスレコーダーの録音は終わっている。時間は「18時56分28秒」であった。

 残された機体は、北西に570m離れた谷向こうの蟻ヶ峰(神立山)の北北東にあたる無名の尾根に裏返しの状態で激突する。胴体後部が折れ、スゲノ沢に滑り落ちて行く。」

というのが、「日航機墜落事故 東京-大阪123便」に書かれている垂直尾翼を失ってから墜落までの様子を追った記述である。



日航事故機は、
◎機体記号 JA8119  ◎型式 ボーイング747SR-100 ◎製造年月日1974年1月30日  ◎製造番号 20783 耐空証明 第48-028 ◎総飛行時間 25,030時間18分 ◎総着陸回数 18,835回  ◎新規登録年月日 1974年2月19日



 事故当日の出発から爆発までは
 
 「1985年(昭和60年)8月12日、ボーイング747SR-100型機のJA8119号機は、日航の定期便として羽田~千歳503便、504便、羽田~福岡363便を経て、366便として福岡から17時12分に東京・羽田空港に到着している。18番スポットでその後の123便として大阪への飛行準備をしていた。

 乗客は夏休みを利用した家族連れやビジネスマンが目立ち、509人が搭乗していた。この中には元マネージャーの選挙応援で大阪に向かう歌手の坂本九さんや、21年ぶりのリーグ優勝を目前に控えた阪神タイガース球団社長・中埜肇さん、ハウス食品社長・浦上郁夫さん、元宝塚歌劇団の娘役で女優の北原遥子さんなどの著名人も乗り合わせていた。

 操縦席では左側の機長席には機長になるために訓練中の佐々木祐副操縦士が座り、教官の高濱雅己機長が右席に着いた。福田博航空機関士は、副操縦士席後方の定位置に着席していた。客室では12人の客室乗務員が職務についていた。

日航123便は18時4分にスポット18から移動を開始し、滑走路15に入った。 524人の乗客・乗員を乗せた123便は、燃料3時間15分ぶんを搭載して18時12分に羽田空港を離陸した。

123便は離陸後、機首を180度(真南)に向け、1万3000フィート(3960m)まで上昇をが許可された。このあと、2万4000フィート(7315m)への上昇が承認された。管制は羽田空港進入管制部から所沢にある東京航空交通管制部に移管され、大島の北を伊豆半島の下田市方面をめざして上昇していった。

 18時24分35秒。123便は伊豆稲取港の東約4Km沖の上空にあった。事故調は「ドーンというような音」としているが、ボイスレコーダーを聞いてみると「ドドーンドンドン」と聞こえる。

近くにいた生存者(落合由美さん)は「パーン」という乾いた高めの音だったと証言している。破壊音はジャンボ機の60mの胴体内を伝わっていく過程で、高音が減衰し、エコーも混じってコックピットのボイスレコーダー用のマイクに収録されていた。

衝撃音に続いて「ビー、ビー、ビー」と3回ブザーが1秒間鳴っている。この警報音は客室内の気圧が1万フィート(3000m)の高さの気圧以下になったか、離陸警報が作動したかのいずれかだと考えられている。

 操縦室では機長が「ギアみてギア」といい、続いて「スコーク77(セブンセブン)」と緊急事態を意味する信号の発信を指示している。通常の訓練なら異常事態を把握して、そのときの状況で必要なら「スコーク77」を発信することになっている。

それがいきなり「スコーク77」の発信指示したことは、よほど危険を感じるような振動であった可能性が高い。 」


この「よほどの危険」が何であったのか?出発から墜落までの軌跡をたどるとき、相模湾上空での爆発音が何なのか?なぜすぐに政府は救助に向かわせなかったのかなどいまだに謎とされていることは多い。

御巣鷹山に墜落して520人の身元確認作業の困難さについては、「沈まぬ太陽 御巣鷹山編」にあるとおりだが、真夏の猛暑の中遺体の確認は困難を窮めた。多くの医師・医学者や法歯学者の協力によるところが大きい。確認までには4ヶ月もの月日がかかったというが、それでも二人(うちアメリカ人一人)の身元は確認されなかったという。


この記録におけるその後の記述

「4人の生存者(落合由美さん、川上慶子さん、吉崎博子さん、吉崎美紀子さん母娘)はこの胴体後部の座席だった。事故調の認定した墜落時間は「18時56分ごろ」としている。

位置は北緯35度59分54秒、東経138度41分49秒で、群馬県多野郡上野村大字楢原字本谷3577番地国有林76林班内であった。
 墜落現場は黒沢丈夫上野村村長によって「御巣鷹の尾根」と命名される。御巣鷹山の南東2Kmの地点に当たる。

 墜落時の猛烈な衝撃と火災によって、520人の犠牲者の遺体の大半は激しく損傷していた上に、猛暑という季節的な悪条件も加わって腐敗の進行も早いので、身元の特定は困難の連続だった。

また、この当時はDNA鑑定技術もまだ十分には確立されていなく、地元・群馬県の医師のほか、法医学者や法歯学者などが全国から駆けつけ、冷房施設のない体育館での猛暑と腐敗臭や遺体保存用のホルマリン臭など、劣悪な環境の中、多数の人々が協力しあって人海戦術で判別作業を進めた。

最終的な身元確認作業の終了にはおよそ4ヶ月間という時間と、膨大な人手を必要とした。しかし2名の乗客(うち1人はアメリカ人)の身元は遂に判明しなかった。

 事故調は、2年後の6月19日、事故報告書を当時の橋本運輸大臣に提出。事故原因について、1978年(昭和53年)6月、伊丹空港での「しりもち事故」で損傷した後部圧力隔壁のボーイング社修理チームによる修理がずさんだったため、圧力隔壁が金属疲労を起こして破壊され、急激な減圧とその時発生した衝撃波が垂直尾翼に流れ込み、JA8119号機は垂直尾翼の2/3とテールコーン(補助動力装置などが入っている)を失ってしまったとしている。

 しかし、この「圧力隔壁破壊説」には多くの矛盾が指摘され、事故から20年経っても本が出版され、航空機専門家、パイロットなど乗務員関係者、マスコミ関係者、そして遺族の方々らが真の事故原因解明を求めている。」
           

本文は主に『日航機墜落事故 東京-大阪123便 』(サイト管理人 祝部幸正) http://www.goennet.ne.jp/~hohri/n-index.htm
からの引用であるが、これは米田憲司著「御巣鷹の謎を追う」(宝島社刊)から祝部幸正が引用・加筆したものである。


11月の和順庭

11/1チューリップ球根を植え、寄せ植えをかざって
和順庭へ。トマトのあった所を耕して、石灰をまきました。 

ナスタチウムがよく育ちました。

植木鉢にビオラ「野うさぎミーモ」と「ラビットダンス」やシュガーパインなどを寄せ植えし道行く人から見えるように、置きました。このビィオラは、うさぎの顔に似た花を咲かせます。





チューリップの球根を植え、肥料をまき、畑を耕し、汗が出るほど働きました。仕事を終え、庭を眺めると、しだいに秋から冬の庭に移り変わって行くのがわかります。

コスモスやパイナップルセージ、チェリーセージ、ウインターコスモスなどの花がまだ元気よく咲いています。寒くなってきたので、パイナップルを堀り上げ、家で冬ごしさせることにしました。

11/1ねぎを土中に植え替えて、紅白大根を収穫
土曜日、朝から雨が降り、和順庭のトマトを抜いて石灰をまき耕したところに苗を植えるのは今日も無理かと思っていたのですが、だんだん晴れてきて午前中はあきらめていた野菜の苗の買い付けに午後から行くことにしました。

 行く途中で吉祥寺に寄り、電気店の期限ぎれになると通知が来ていたポイントで買物をし、「野方ホープ」というラーメン屋さんで昼食をとりました。

それから瑞穂町のジョイフルへ。暮れに毎年白菜をつけるので、白菜とキャベツの苗を買いたかったのですが、白菜の苗はすでになく、キャベツの苗とはじめて挑戦するマルチという野菜を植えつけるところに丸い穴のあいているシートを買いました。

それに和順庭に新しく仲間入りするうさぎの置物も。
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南入口で。

夕方和順庭に到着し耕し終わったときには、すっかりあたりは暗くなり植えつけたキャベツの苗の写真はとれませんでした。

苗に寒冷紗というネットのようなもので覆う予定だったのですが、お店の人と相談したところ、この寒い時期は虫もつかないし、販売されている苗は耐寒性があるから不必要だと言われ、やめました。

終わって和順庭あたりで食事をしようと車を走らせていると、今まで行ったことのないエリアに大きな西友があることがわかり、行ってみることにしました。小手指で食事して帰りました。

帰り降り続いた雨に洗われた夜空は、満天の星。また、多摩湖まで戻り、いつもよりはっきりときれいに輝く夜空の星を眺めました。



 
11/23冬桜、山茶花、花の苗を植えて
桜ヶ丘公園で買った冬桜や山茶花、花の苗を和順庭に植えました
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買った苗

植えた山茶花と

冬桜



11/28



ねぎを植え替えて


紅白大根の収穫


たまねぎ


キャベツの苗とナスタチウム


冬桜に花が咲いて


どうだんつつじの紅葉
 
花手鞠がまだきれい

南道路から和順庭を眺めて


パパガーデンのにんにく・らっきょう


ブルーサルビアとパイナップルセージ



北道路から和順庭を眺めて


マーガレットとチェリーセージ


ラベンダー畑




日本庭園

12 日航機墜落の真相は? *アイソトープ(放射性物質)搭載情報は何を意味するのか




 日航機墜落から24年という歳月が経ち、墜落原因としてかつて浮上したいくつかの説もかなり淘汰され、またこれだけ月日が経ったから言える証言や事実もでてきたのかもしれない。

自公政権のときに都合の悪いことは権力で抑えられていても、政権交代により明るみに出される事実もあるだろうと思われる。


 「2 日航機墜落の真相は? *私がなぜ御巣鷹山へ言ったのか?」の「8月12日事故発生から救助まで」のところへ書いたが、 その後のボイスレコーダーからわかるように日航機123便は「18時24分 ドーンという音が発生」している。そして、この時からバランスを失い、ダッチロールといわれている飛行に入る。

この音が何なのかである。機内での爆発か?それとも何かが衝突した音なのか?原因として現在まで残っているのが、ミサイル説ということになる。

 日航機が 18時56分「御巣鷹山の尾根」に衝突したが、地上でも行方不明の日航機の捜索を横田基地C-130に依頼し、19時19分C-130H墜落現場を発見、19時21分空自百里基地のF-4EJ2機も墜落現場を確認。19時26分NHK事故の速報を流している。

19時35分 長野県警警備二課に日航機墜落事故総合対策室設置。事故に関する情報の収集を各警察署に指示。19時50分 長野県警警備2課内に日航機墜落事故対策連絡本部、臼田署に日航機墜落事故対策本部、北相木村役場内に日航機墜落事故現地指揮本部が設置される。20時00分 群馬県警警備2課に日本航空機行方不明事故対策室が設置され、20時16分 政府対策本部の設置決定されている。

 ところが、墜落を知った日本アイソトープ協会から「事故機に医療用ラジオアイソトープ(放射性物質)が92個積載されていた」と警察庁に届け出がでる。

このことと墜落現場が特定されながら救助されないことから、この放射性物質が搭載されていたのが原因で、墜落現場が放射能汚染されているので救助待機命令が出されたのだという情報も出回った。

たしかに、「9 日航機墜落の真相は?やはりミサイルか?当日の目撃」の「2007年09月19日 ●情報統制の4原則というものがある(EJ第1075号) 」にも新聞に載ったことが書かれている。
 
 『事故の翌日のことです。8月13日付朝日新聞に、「積荷に放射性物質」という記事が出ていたのです。事故翌日の朝刊のメーン記事は、事故現場特定の確認記事です。

読者の一番知りたいのは日の暮れかかった山間部にJAL123便がなぜ行ったのかという解明なのに、どの新聞もふれていないのです。
 
なぜ「積荷に放射性物質」なのでしょうか。記事の結論は、「人体への影響はない」と締められているのですが、あたかも、事故現場への早期立ち入りができなかったことへの言い訳を代弁しているようにも読み取れるのです。
・・・ [御巣鷹山事故の謎/22]』

 「放射性物質のために自衛隊員を現場に立ち入らせなかった。」という説と、ミサイルの誤爆を隠し証拠となる残骸を回収する時間稼ぎをするため人体に影響のない医療用のものを放射能を浴びるおそれがあるからと言って待機させこのような情報を発表したとする説がある。

いずれにしても救助に向かう隊員を待機させ、「5 日航機墜落の真相は?救助自衛官射殺というNHKニュース速報」で書いたように「待機命令に反して怪我人救助を急いだ自衛隊員1人射殺NHKニュース」の待機命令に反し救助に向かおうとした自衛官射殺が事実 かどうかは別としても、救助に向かおうとした自衛官との間で何らかの摩擦があったことは事実のように思われる。

 爆発物がしかけられたのではという説が出たのは、「爆発させた」という声明がだされたため、過激派や当時世間を騒がせた「グリコ・森永事件」の犯人が爆発物をしかけたのではとも推測された。(グリコ・森永事件で脅迫されていたハウス食品社長が123便に乗り合わせていたことからこのようなことも言われた。)

 24年経った現在もっとも墜落原因として有力なのがやはりミサイル説であり、墜落し現場が特定されていながら救助自衛隊を待機させ、墜落現場をわざと御巣鷹山から遠ざけるように誤情報を流したと思われている。

 権力を持つ者は、自分の権力の及ぶ範囲で権力を行使して処理しようと思うだろう。

 いずれにしても当時の中曽根総理が首相として地元でありながら墜落現場を訪れていないのも何かあるように思われる。

 もし、事実として原因究明するために隠されている何かがあるなら、「墓場まで持って行く」のではなく、520もの霊の眠るあの世に行く前にこの世ではっきりさせておかなければとても成仏などできないであろうと思ってしまう。

冬桜を見に桜山公園、城峯公園へ行って

 冬桜を見に、藤岡神川町にある桜山公園へ行きました。

関越自動車道の本庄・児玉インターで降り、途中、花の苗を売っているお店で苗や山茶花の木を買ったり、昔なつかしい木造校舎の学校のある道の駅で買物をしたりしました。





桜山公園の第一駐車場はかなり車が並んでいて、第二駐車場から山の頂上めざして登りましたが、登りはじめにここからだとかなり急な階段を登って行くようになります。この頃運動不足だったのがこたえ、ハーハー言いながらやっと登りました。




椿や山茶花、あざみ、すみれの花が咲いています。


途中の眺め




頂上に行くに従い、あたりの山々がよく見えます。紅葉と桜がきれい

桜山の頂上。


山全体に冬桜が咲いています。

甘酒で体を温めて


第一駐車場に向かって、山を下ります。


どこを見ても冬桜と紅葉

この寒い時季にこんなに桜が見られるなんて

冬桜はまた春に咲くということ。年に二回楽しめます。



冬桜は普通の桜よりも花が小さいので、山にこな雪が散っているように見えます。

桜山森林公園の案内図を見ながら

山の上から見ると桜山へ来る車が駐車場へ入れなくてじゅずつなぎになっていました
山を下りたところに日本庭園がありました。



  

第一駐車場にあるお店を見て、また山道を第二駐車場へ戻りました。  




第二駐車場へ向かう途中の山道は特に紅葉が盛りできれいでした。

冬桜の白と紅に染まる葉。

自然の力とはつくづく感心してしまいます。この四季おりおりの美しさ。



これから城峯公園に冬桜を見にいきます。

麓には林檎が栽培されていました。

枝に林檎がたわわになっています。



もう少し行くとみかんを栽培・販売しているところがありました。
みかんのつみとりはぜずに買って帰りました。
ここにも冬桜が咲いていました。

途中、馬がいました。

城峯公園の冬桜はもう終わりかけています。


寒くて吐く息が白く見えます。群馬は寒い。帰ることにしました。
群馬県と埼玉県にまたがる下久保ダムです。


この辺りダムばかりなのです。群馬県はダムが多い。


神流川渓谷です。



帰りにインターをおりてすぐ花の苗を買ったお店へ再び行き、冬桜の木を買って帰りました。
三連休のため、帰りの道は渋滞していました。



光が丘

20091121173904

光が丘へ買物と食事に行きました。もう着いたのが夕方だったので、陽が暮れてしまっていたが、銀杏並木が黄色くなっていてとてもきれいでした。
ここのところ寒くなり出不精になっていてブログばかりしていて運動不足、枯れ葉散る光が丘公園を散歩しました。

落ち葉を踏みながら、子供の頃落ち葉を集めてやきいもしたことを思い出しました。東京でもまだこうした季節の移り変わりが感じられるのは幸せだと思いました。明日から農業祭が始まるようでその準備がされていました。「さくら水産」で食事をして帰りました。


このお店居酒屋で、やはりお酒を飲まない車で買物に来ている者には、落ち着かぬ場所でした。


接客があまりよくなく、二つ頼んだ「ご飯セット」が一つしか出てこず、途中でキャンセルしたりで、お酒でも飲んでいる者は飲みながら待たされてもいられるでしょうけれども、お腹を空かせていらいらするようでした。


行き違いがあり、キャンセルしたりして、急遽ものめずらしさもあってチーズシーフード鍋を注文し、これはあまり期待はしていなかったのですが、体があたたまって美味しかったです。


店長さんなのでしょうか、途中からベテランの店員が入ってスムーズになったようです。

11 日航機墜落の真相は? * 高浜機長の技量と安倍説





「(新)日本の黒い霧(セミナー開催報告10月15日)」には、墜落日航機の高浜機長についての記述があります。

http://blog.goo.ne.jp/adoi/d/20091015


 
『セミナー翌日の10月11日(日曜日)、正午前に千葉県内を自動車で移動していたところ、海上自衛隊の対潜哨戒機 P3C が、サーチライトを点灯しながら美しい3機編隊を組み、低空飛行で上空を通過して行くのを目撃しました。ちなみに、この編隊飛行は非常に高い技量を要求するものです。

思い返せば、123便の高濱機長は元海上自衛隊の対潜哨戒機 P2J のパイロットであり、その腕前も5本の指に入るほど優秀なお方だったと聞き及んでいます。

本ブログでは、高濱機長のとった懸命の撃墜回避行動についてまだ触れていませんが、機長が元自衛官パイロットとして最高の判断と技量を示したことを先に皆様にお伝えしておきます。機長のこの奮闘があったからこそ、今に至っての真相究明が可能になったと言えるでしょう。

ただ残念なのは、結果的に悲劇は避けられなかったことです。おそらく機長の魂は今もそこに留まり、多くの犠牲を出したことに苦しみつつ、私たちに真実の究明を訴えかけているに違いありません。

高濱機長の任務は事故から24年を経過した今も続いているのです。この辛い任務から一刻も早く解放して差しあげるためにも、1人でも多くの日本国民に真相を伝えていかなくてはならない、1人でも多くの祈りを届けなければならない、そう思いつつ、私の真上を飛び去る3つの大きな機影を目で追っていました。』



また、作家 安倍譲二氏は別冊「宝島」の中でこのように述べています。

「陰謀でもなく、日航機は撃墜されたとしか思えない」 日航ジャンボ機墜落事故(1985年)特別インタビュ―◎安部譲二 

http://www.asyura2.com/0601/bd45/msg/454.html

投稿者 黄昏時のパルチザン兵士 日時 2006 年 8 月 14 日 14:16:23: WCbjO5fYf.pMQ

ボ―イング社の修理ミスによる圧力隔壁の亀裂、急激な空気の流入による尾翼破損、操縦不能で墜落。これが最も知られている520人の命を奪った大事故の原因である。

全てが公開されなかったボイスレコ―ダ―、二転三転した事故調査委員会の文言・・・・・・・。事故から21年、まだ謎は解けていない。


作家・安部譲二氏は日航機の客室乗務員だったという時代がある。単発エンジン小型機の操縦免許も持っている。

その安部氏は1985年、日航ジャンボ機が群馬県の御巣鷹山に墜落した事故を、事故ではなく、事件だと確信している。

著書、『日本怪死人列伝』(02年、扶桑社文庫)で安部氏は、<無残に撃墜されたのだ>と断言している。



85年8月12日、羽田発大阪伊丹行きの日航機123便、ボ―イング747型機が墜落して520名という航空機単独の事故としては史上最大の被害者を出した。飛行機事故の歴史に残る大事故である。

この事故には、当時から数多くの疑問が投げ掛けられていた。
「墜落した日の夜中に日航のスチュワ―デスをしていたおばさんから電話があってね。日航のイチニイサン(123)便が〝行方不明〟で大騒ぎになっている、って言うんだ」

事故発生の時点で安部氏は首を傾げている。
「だってね、あんな大きい飛行機がいなくなっちゃったって言う。85年でしょ。その頃は日本全国、軽飛行機ですら行方不明になるなんてことはあり得なかった」

安部氏によると、この時代には米軍のレ―ダ―サイトが張り巡らされ、自衛隊のレ―ダ―監視網も日本の全ての空域をカバ―していた。さらに空港の管制塔はエリアごとにすべてをフォロ―していたという。

JAL123便を示す影が管制塔のレ―ダ―から消え、機体の消息を絶った、とされているのは18時56分。18時18分に羽田を離陸した約40分後である。18時24分に123便は緊急事態を告げる〝スコ―ク・セブンセブン〟というサインを送っている。

このサインを送る直前、123便は操縦能力をほぼ完全に失い、関東上空を迷走したうえでのレ―ダ―からの消滅だった。

「行方がつかめなくなった末にどこに墜ちたかわからない、(自衛隊、米軍の防空能力が)そんなことだったら戦争なんかできないでしょ」

機体の発見まで長い時間がかかったことは事実である。国民はやきもきして臨時ニュ―スを夜通し流すテレビを観続けた。埼玉県と群馬県の県境にある御巣鷹山の山腹で123便の残骸が発見されたのは翌日の9時である。消息を絶ってから13時間が過ぎていた。

たしかにこれでは、例えば国籍不明機が侵入してきても、いったん機影を失えば半日間は発見できない可能性がある、というのに等しい。


★すべて公開しない謎

事故そのものが不測の事態だから、思いもつかぬことが重なって混乱したということは考えられるが、航空機事故という大事に、いったいこんなことがあり得るのか。

ともあれ、安部さんは事故発生のその日から深い疑問を抱く。

「その頃は、もう知っている人間は乗っていなかったけど、飛行機乗りってのは、(事故には)敏感なんですよ。まだプロペラの時代だけど、昔『木星号』という旅客機が墜ちた。大島の三原山に墜ちたんだけど、マスコミには相模湾に墜ちたとミスリ―ドして引きつけておいて、そのあいだに何かを回収した。ああ、またやってるなと」(略)

航空機事故で、事故原因の解明にきわめて重要な役割をもつのが操縦席の会話を録音したボイスレコ―ダ―だ。後年、テレビで123便のボイスレコ―ダ―が公開された。

「聴きました。それでプライバシ―に関わることなので一部は公開しないという。あれは犯罪じゃないですか」

安部さんが言う通り、ボイスレコ―ダ―の全ては公開されていない。
「520名が亡くなった事故だよね。コクピットで何を叫んでいようと、たとえ『お前のかあちゃんと寝た』と叫んでいようとも、公開しない理由にはならないでしょ」

テレビで公開されたのはダビングしたものだが、オリジナルは他の資料といっしょにすでに廃棄処分されている。

航空事故調査委員会はこの事故をボ―イング社の修理ミスに起因するものと結論ずけたが、当時からこの結論に疑問を呈する声、真っ向から否定するものは多かった。

事故調―――航空事故調査委員会が報告した事故原因を簡略化してまとめてみよう。

1、 該当の機体は事故の7年前に伊丹空港でしりもち事故を起こして客席と機体外壁を隔てる「圧力隔壁」が破損した。

2、「隔壁」の破損を米ボ―イング社で修理したが、修理ミスがあった。

3、以後の飛行による劣化で、事故当日、修理ミス部分から「隔壁」に亀裂が入った。

4、気圧差でその亀裂から客席の空気が吹き出し、圧力で尾翼を破損させた。

5、尾翼の破損で油圧系統がすべてダウンし、操縦の機能も失われた。

6、迷走の果てに墜落。

ということである。いったいそんなことで尾翼が吹き飛ぶのだろうかという疑問はあったが、事故調支持の学者は材料工学などを駆使して、「あり得る」とした。


★急減圧はなかった

であるとしても、そこには強烈な空気の移動があったことが前提になる。繰り返し議論になっている客席の「急減圧有無論争」である。

急減圧とは、どういう事態なのか、急減圧が起きたら、機内はどうなるのか。

「僕は、急減圧を経験したことはありません。だけど急減圧に対する訓練ってのはね、乗務員が不時着水よりも時間をかけてやることなんです。だからパイロットは急減圧があったら、それこそ急減圧のキュを聞いたら(酸素マスクが)落ちてこなくても落ちても反射的に手を伸ばすものなんです。

客室には客席分の酸素マスクのほかにバゲッジに10メ―トルごとに携帯用の酸素ボンベがあって、乗務員はとりあえず酸素を確保できるようになっているんです」

事故調は急減圧があったとしたうえで、パイロットが酸素マスクを装着しなかった理由については「不明」としている。

だが安部さんによると、あの高度、メ―トルで推定6000から8000くらいで急減圧があった場合であれば酸素マスクをつけなくても操縦は可能だという。

「エベレストの高さで酸素マスクをつけずに登ったって言う、それと同じでそれほどの高々度ではない」

しかし高度にかかわらず、エンジンの出力だけを操作して困難な飛行を数十分も続けることは超人的な技能なのだ。

生存者のひとり、客室乗務員の落合由美さんの証言は、どう解釈しても急減圧はなかったことを証明している。落合さんは急減圧を感じなかったと事故後の調査で証言している。繰り返し急減圧の訓練を受けている乗務員の彼女が、実際にはあった急減圧をなかったと勘違いすることはあるのだろうか。

それはあり得ない」(安部氏)

酸素マスクを装着していた遺体はひとつもない。

これらのことから、日航の従業員組合の組織、日航乗員組合連絡協議会は「急減圧はなかった」と結論したレポ―トを発表している。

だが事故調は急減圧があったと報告をまとめ、運輸省に提出し了承されている

「事故調は急減圧はあったと言っているけど、どっちが正しいかと言うと100対0でこっち(日航乗員組合側)が正しい」



★修理ミスを認めた理由

事故調を支持する側の学者は、すると急減圧はなかったが、ゆるやかな減圧はあったのだとした。

しかし急減圧がなかったのなら、事故調が報告した隔壁の亀裂そのものが疑わしくなり、尾翼が急激な気圧で吹き飛んだという説が成り立たなくなるのである。つまり事故調の報告はまったくの虚妄ということになる。

「ボ―イングが、ずいぶん早くにまず修理ミスから圧力壁の破壊と言いだしたんだよね」

どうしてボ―イング社が、修理ミスを早々に言い始めたのか。ボ―イング社がそうする必要がどこにあったのだろうか。

「今、日本ではダグラスとかほかの社の飛行機はほとんど飛んでいないじゃないですか」

幹線を主にして、確かにボ―イング機がほとんどである。

「当時の日本の航空会社のトップはボ―イングっていう名前にアレルギ―があったんですよ。ボ―イングのB29からB17にさんざん爆撃されたからね。聞くのもイヤな名前で、だからダグラスばかりだったんです。

その隙をついて、ロッキ―ドとか売り込みにきて、ボ―イングは大苦戦だったんですよ」

戦後、日本の民間航空を再建したのは、旧陸海軍で航空に携わった者たちだった。

こうして日航、日本政府に貸しをつくったボ―イング社が、のちに日航をはじめとして日本の民間航空機の市場を制したという。

日航乗員組合連絡協議会の元日本航空のベテラン機長、藤田日出夫さんは、尾翼が壊れた原因として『新潮45』(00年8月号)で「フラッタ―説」を書いている。

フラッタ―とは、分りやすく言えば細かい震動である。航空機の場合、旗がはためくように震える現象を指し、機体の破壊につながる。

「藤田さんは、僕みたいな小説家と違って、専門家として冒険ができなかったんです。思うことはあったとしても、パイロットの立場としてはいえないことがあるんでしょう」

藤田氏は、ボ―イング機の構造的な欠陥によってフラッタ―が起こり、尾翼が破壊されたと、わずかな行数で遠慮がちに指摘している。

「航空機の尾翼は、戦闘と、(衝突の)事故以外で壊れたことは、プロペラ時代も含めて、ライト兄弟以来、一回もないんですよ。それくらい尾翼というのは堅牢な中でも堅牢なものなんです」

では安部氏が主張する事故原因、尾翼破壊の原因とはなんなのか。

それは、自衛隊の無人標的機が123便の尾翼に衝突して破壊したのだというのだ。

事故当時、新造された護衛艦「まつゆき」が相模湾で試運転中だった。その「まつゆき」艦上からテストで無人標的機が発射され、123便の尾翼に衝突した、というのである。

「ぶつけたんじゃなくて、ぶつかってしまったんでしょ。標的機はジェットエンジンで高速で飛ぶものだから、当てようとしてもなかなか当たらないものだそうです」


★民間機相手の訓練

この説を主張しているのは安部氏だけではない。
「雫石のあとでしょ。あの時は自衛隊機が全日空機を相手に戦闘訓練を勝手にやってて、それで後ろから突込んじゃった」

雫石事故とは71年、全日空機のジェット機727型機に航空自衛隊のF86F戦闘機が衝突した事件である。この時、自衛隊は全日空にも管制にも訓練を報せていなかった。

この時、ある疑いがもたれた。自衛隊機が民間機の全日空機を敵機に見立てて戦闘訓練をしていて誤って衝突したのではないかという疑惑である。

乗客乗員162名が死亡。この時は航空幕僚長の辞任で収まっている。運輸省管轄の航空事故調査委員会はこの事故をきっかけに誕生している。

日航機事故の当時は第二次中曽根内閣。中曽根康弘が内閣総理大臣、航空を含めた運輸行政を司る運輸大臣は山下徳夫、防衛庁長官は加藤紘一、内閣官房長官は藤波孝生だった。

もし安部説が正しいとしたら、この日航機事故の情報はどこまで上がっていて、誰が処理に関する全ての決定権を持っていたかということだ。
「それは中曽根でしょう」

安部氏は言う。

自衛隊機が民間航空機を仮想の敵機として訓練することは今もあると安部氏は睨んでいる。

「僕がいたときはしょっちゅうだった。米軍機だけだよ。やんないのは。ほかの国は日本を含めて予算がないから、民間機を相手に訓練するんだよ」

無人標的機が衝突したという話を最初に聞いたのは、いつ、どういう機会だったのか。

「いつだったかな。日航の仲間からだったと思うけどね。彼らが自費で船を調達して、発見されなかった尾翼の部分を探しているって聞いた時かな。見つからなかったけどね。もうとっくに海上自衛隊が回収したんでしょう」


★撃墜された日航機

安部さんは123便が山に向かって北上したことにも、疑惑を抱いている。
「機長は大阪行きなら、もし伊丹空港での着陸がなんかの事情で不能になったら、すぐ代わりにどこに着陸するか考えるものです。

123便は相模湾上空でなんだかわからないけどアネ―ブル・コントロ―ル(操縦不能)になった。あの場合、海に不時着することを考えるのが普通なんですよ」

操縦席では尾翼が壊れていることはまったく分かっていない。

「分かっていてもいなくても、操縦不能なんだから」

123便が海に向かわないで陸地に向かった理由は何だったのか。

「僕はね、最終的には撃墜するためだと思いますよ。本ではそこまで書けませんでしたけど。123便の操縦士は横田か福生に降りようとしていたと思うんですよ」

123便は海ではなく、山の方に故意に誘導されたと安部さんは主張する。では123便はいつ、どこで撃墜されたのか。

御巣鷹山近くの複数の住人が、123便が炎をあげて墜ちてきた、光るものが飛んできたと証言している。

例えば123便が機体を安定させようとエンジンを操作し、最大のパワ―でジェットエンジンを噴出したとして、その排気を炎と見間違えることはあるのだろうか。

エンジンからの排気、または金属の機体が折りからの夕日を反映したということも考えられはする。検証をせずに123便に炎があったと断じることは危険である。が、そういう目撃談があることは事実である。

「自衛隊の浜松基地から2機の戦闘機(F14)が発進してるんですよ。どの時点で撃墜するためのミサイルをぶっ放したか、僕は分かりません」


★NHKが故意に誤報した

自衛隊が、ダッチロ―ルで飛行している123便をなぜ撃墜する必要があったのか。

「あの機体が横田でも福生でも羽田でも、もしあのまま着陸してしまったら、内閣、吹っ飛びますよ」

安部さんはNHKが墜落地点を故意に誤報したとしている。NHKは翌日の朝まで墜落地点を長野県北相木村と報じた。これは報道陣をはじめとした人間たちを故意に違った地点に導くためだったとしている。

御巣鷹山は群馬県上野村にある。上野村の当時の村長は黒沢丈夫氏だった。のちに御巣鷹山に慰霊施設をつくり、登山道を整備した名物村長である。海軍兵学校を出た黒沢村長は戦争中は零戦のパイロットでミッドウェイ海戦にも出撃した勇士である。

その黒沢村長が飛行機乗りの経験者として村民の証言などから墜落地点を御巣鷹山だといちはやく推理している。

のちにある座談会で、事故対策室や日航、自衛隊が墜落地点をなかなか特定できなかったことに疑問を呈している。

安部氏は言う。
「(NHKを使って)積極的にミスリ―ドしたことは間違いありません。

それは、無人標的機の残骸と、最後に123便にとどめを刺したミサイルの残骸とそれに傷つけられた機体を回収するためです。

シコルスキ―(自衛隊の大型ヘリコプタ―)を持っていってすぐ、生存者よりもなによりも早くそれを回収するため行ったんです。

なにかオレンジ色の大きなものを釣り上げている写真を新聞社か週刊誌は持っていたはずですよ」

オレンジ色の部品は123便にはない。無人標的機の塗装色である。

当時、日航の大株主は日本政府である。35%の株を持っていた。

「日航ってお役所でしょう。僕の経験では、日航は政府にまるで頭があがらんでしょ。だって運輸省の下部組織みたいなものだったんだから」

安部氏は日航機事故をもう一度書きたいと言う。

「全日空にも日航にもエライさんに知っているのがいるんだけど、みな日航機事故のことをいうと黙るんだよね」

日本のマスコミは本当のことを言わないし書かない、調べようともしない。
「だから、本当のことを言い続ける僕の仕事がなくなることはない。日航機の事故は必ず書く。これはライフワ―クだと公言しているんです」



別冊宝島1324  
昭和・平成日本「怪死」事件史 〝疑惑の死〟から見える日本の「闇」と「タブ―」』
プロフィール

和枝

Author:和枝
 高校教師をやめ、ガーデニングのブログを書くうちに、気づいた小沢問題の陰に潜むマスコミや検察の腐敗をブロガーたちと追究し、小沢一郎氏の無罪判決を得ることができました。

「和順庭の四季おりおり」と題したブログの時から御支持いただいた真実を追究する仲間や冤罪被害者の皆様に支えられ、市民メディア「ツイートテレビ」を立ち上げ、私も生まれ育った東京を離れ、「生活の党と山本太郎と仲間たち」に習い、心機一転、主人の郷里・徳島にてエネルギッシュで常に現実に向き合い情報発信する生活をしています。
 
 それに伴い「和順庭」と名づけた庭も徳島県へ引っ越しました。



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口座名 服部 和枝

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