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乳癌 (4)抗がん剤治療に悩む(セカンドオピニオンへ)

5月2日に放射線治療が終わり、娘の出産でしばらく徳島を離れている間も、抗癌剤治療をどうしょうかと悩んでいた。

私の遺伝子はホルモン治療が効くタイプなので、切除手術・放射線治療・ホルモン治療だけで抗癌剤をしなければ生存率80%、抗癌剤によってさらに0~10%上乗せできると言われていた。

リンパに転移すると癌細胞が全身にまわっている可能性があること、切除した癌が端までいっていて取りきれず残っている可能性もあり、何より遺伝子の増殖率が高いので、主治医からは抗癌剤治療をすすめられていた。

抗癌剤治療については、近藤誠医師の「医者に殺されない47の心得 」、ジャーナリスト船瀬俊介氏の「抗ガン剤で殺される」などの著書だけでなく、ネット情報にはその危険性を指摘するものがあふれていた。

医者に抗癌剤をすすめられながら、また別の医者の医者は「抗癌剤で殺される」という。

癌患者にしてみたら、これほど判断に迷うことはない。たぶん、みなその立場になったら悩むと思う。

特に、近藤誠医師の「医者に殺されない47の心得 」は、乳房温存療法を確立した功績は認められても、抗癌剤治療について書かれている部分は、首をかしげることも多かった。

 なかなか結論が出せない日が続き、それでもやはり納得した上で治療を受けたいとの思いから、セカンドオピニオンを受けることにした。放射線治療が終わってから、すでに1ヶ月以上もの月日が経過していた。

幸いにも「納得した上で抗癌剤治療を受けたいのでセカンドオピニオンを受ける」という私の申し出を主治医は快く許し、病院への予約、紹介状や病状についてのデーターを送付する手続きをするように指示して下さった。

セカンドオピニオン制度は、保険が適用されず自費で相談時間によって料金が変わる。30分まで10500円、30分を超えて45分まで12750円、45分を超えて60分まで15000円で、それ以降も15分毎に2250円が加算される仕組みだ。

そして、6月5日(水)徳島から比較的近い所にある癌センターを夫と訪れた。あらかじめ主治医から紹介状をもらい、私の病状についてのデーターを送付してもらって、予約した日時に行った。

乳腺外科は、水曜日の午前中が相談日に当てられ、担当医も決まっている。

癌センターの受付で、必要事項を記入し、紹介状を渡して、指示された診察室の廊下で待っていた。 

予約時間を30分ぐらい過ぎた頃、呼ばれて相談室に入った。ベテランであろうと思われる医師と看護婦さんがいた。

「どういうことで来られましたか?」というようなことを聞かれ、今までの経過と0%かもしれない抗癌剤の必要性について疑問を話した。

浸潤性乳菅癌で摘出したしこりは3cmほどだが端まで癌細胞があり、取りきれていない可能性があること、見張りリンパと呼ばれるリンパ節に転移があり(8個摘出したリンパのうちの1個にだけ転移が認められた)、女性ホルモン受容体エストロゲンレセプターはプラス、プロゲステロンもプラス、アクセル役のハーセプチンがマイナス、増殖率が33%という遺伝子検査の結果も伝えた。

その医師は、おだやかで信頼できる口調で、これまでのデーターと遺伝子検査の結果から、抗癌剤による再発率がどれぐらい抑えられるか、0%ということはなく効果はあるなどということを話された。

抗癌剤の副作用のことや、抗癌剤の種類についての意見も聞くことができた。

 主治医の診察は、混んでいるからか時間を制約されているようで、疑問があっても何もかも聞くことができないで言われたままをただ「はい」と受け止めて帰り、治療は進むが気持ちが追いつかないでいた。

その乗せられたレールについて何の疑問も持たずにいたら、今頃は抗癌剤治療をすでにしていたのにと思いながらも、本を読み、ネットで調べれば調べるほど納得できずにいた。

自分がその立場になったのでなければ、他の人にはきっとそれまでの知識からだけだったら「抗癌剤はやめたほうがよい」と言っていたかもしれない。自分がなってはじめて岐路に立たされた。

ふらふら思い悩みながら、このセカンドオピニオンによって、話しているうちにだんだん自分の気持ちの整理もできていったといってもよい。

リンパに転移していなければ抗癌剤をすることもないが、リンパ転移があり増殖率が高ければやはり、標準治療として再発を防ぐためにも抗癌剤を用いたほうがいいという結論だった。

 癌センターだから標準治療に沿ってのアドバイスになるだろうことはわかっていた。だが、なぜ抗癌剤をしたほうがいいのかということについて納得できるまで話し、一時的に癌細胞を押さえ込んでも癌細胞に耐性ができるのではないかという心配も伝えた。「私のような乳癌で今まで直った人はいますか?」の問いに「いっぱいいるよ!今は先が見えないから辛いかもしれないけれど、一年経ったときにはきっと抗癌剤をしてよかったと思うはずだ。」という言葉を聞いたとき、私の心は決まっていた。

廊下に出てからも、さらに詳しく看護婦さんからの注意事項や説明があり、そのようなやりとりを通して、私の心はただ抗癌剤がこわいという気持ちから治療として抗癌剤を取り入れようという気持ちに変わっていった。

癌になってはじめてちょっと晴れ晴れとした気持ちになった。不安で落ち込んでいた気持ちがすっきりした。これから待ち受けるであろう抗癌剤治療への迷いはなくなっていた。

 後日、主治医にセカンドオピニオンの結果、抗癌剤治療を受けることを伝えた。

セカンドオピニオンでは、主治医が勧めるタキソテールとエンドキサンという抗癌剤より心臓に負担はあるが効果のある別の抗癌剤をすすめられていた。そのことを話し、相談の結果、私の年を考えて心臓への負担のかからないタキソテール・エンドキサンのTC療法にするということになった。

 セカンドオピニオンのように、ひとりの患者に医師と看護婦が充分耳を傾けて応対してくれる。これが本来の医療なのだろうが、これには保険が利かない。時間を気にせず話して、相談室を出たときには、45分ぐらい経っていて、心の治療代は高額だったが、これがなければ私はまだ闇の中、結論が出せず、さまよっていただろう。
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テーマ : 乳がん
ジャンル : 心と身体

乳癌 (3)放射線治療

 癌切除手術が済むと、治療としては、放射線治療・抗がん剤治療、ホルモン治療と進む。

私もまた主治医に言われるまま、30回の放射線治療に大学病院まで通うこととなった。

 徳島に来て、車のない生活がどれだけ不便か身に沁みた。東京では、交通網が整備されているため、不自由だと感じたことがなかった。車はあって月2万の駐車代を払ってはいたが、どうしても利用しなければならないという必要性はなかった。土日に郊外へ出かけたり、買い物に行ったりするぐらいで、生活になくてはならぬという必需品ではない。

 徳島に来た昨年、暑いときだったからか歩いている人も自転車もほとんど見かけなかった。駅に行けば賑やかなのかと行ってみて驚いた。店もなければ人もいない。汽車(電車はない)も一時間に何本かしかない。

 東京から乗ってきた車一台しかないうちは、夫が仕事のために車で行ってしまうと交通手段は、自転車か歩くしかない。

 大学病院までの道のりを毎日自転車で通うこととなり、3月18日から5月2日まで、30回の放射線治療を受けた。

この時、私は癌という病気になったという事実に動揺していた。テレビをつければ、癌で亡くなったというニュースばかり流れるようで、「これからどうなるのだろう。どうすればいいのだろう」という不安に押しつぶされそうだった。

病院の廊下を歩いていても、何も徳島について知らないという不安で涙がこぼれそうだった。

廊下に貼ってある癌患者への案内を止まって見ることさえも、私は癌患者だと知られるようでいやだった。今思うと、私はまだこの時も自分が癌患者であるという事実を認めたくなかったのだ。

「2人に1人は癌になる時代」という文字に目に留まる。それだけかかる人がいるのに、癌患者のほうへは分類されたくないと思ってしまう。しこりが癌だったとはっきり告げられても、気持ちが追いついていかない。

放射線の受付から放射線待合室が離れていて、この待合室の近くにナースステーションのように何かあっても聞けるところがない。待たされるだけ待たされても呼ばれないとき、ほんとうに不安になった。はじめて来てどんな病院かもわからず、この病院で大丈夫なのかというという心配に襲われる。

非常に不安定な気持ちで、放射線治療に臨んだ。放射時間は5分もないぐらいで、痛くもなんともない。ただ横たわっているだけ。

だけどなんとなく目を開けたら放射線を浴びるような気がして、最初は目も開けられなかった。ぎゅーと目をつむって照射されるのを待っている。そのうち目を開けていても大丈夫だということがわかって、体の力を抜いて臨めるようになった。

 この頃、私は不安を払拭するように、癌克服について書かれている本を読みあさった。食事療法や再発・増殖予防のため、何かできる手がかりが欲しかった。ただ、言われるままに自分の気持ちが追いつかずに治療に身をゆだねるのではなく、治療を受けながらも、自分も何かしていると思える時を過ごしたいと思った。

このときの言いようのない不安を払拭するためには、どうしても自分も前向きに参加できると思える手がかりが欲しかった。

 分類すれば東洋医学、西洋医学、読めば読むほどどちらも同じところへたどり着いていくように思えた。

これらの本から得た知識について、誰かと話がしたいと思った。特に癌患者と。

 この頃、私は、癌が低体温で増殖し、癌にとっては居心地のいい温度で、癌を増殖・再発させないためには体温を上げること。そのためには、体を温める食品をとることだと思って、動物性たんぱく質から植物性たんぱく質へ変えていた。(詳しくはまた述べることにします)

だけどそのことについて、知識を得れば得るほど、聞いてもらいたいと思うようになった。お医者さんに言っても、「肥満にならなければ何を食べてもいい」と言われて、自分のしていることが正しいのかも揺らいでいた。

 そんな時、放射線治療で通っていた病院の廊下で、癌サロンの案内を目にし、どうしてもそのチラシが見たいと思った。今となれば不思議だが、そのチラシをどうしてもとることができない。その案内の前を行ったり来たりしながら、意を決してそれを取るまでには、随分経っていた。

 そして、はじめて徳島で身内以外の人達の集まりに参加することになった。

思わず今までの我慢してきた思いを吐き出して、この日から私はやっと自分ががん患者だと自他ともに認められるようになったのだ。

 何回か参加するうちに、これから受けようかどうしようかと悩んでいる抗がん剤についての体験を聞くこともできた。何よりひとりで抱えていた不安が話をすることで胸のつかえがとれたように楽に軽くなる。

 そのうちに放射線治療中の医師への不安など、思い切って話すことでどれだけ安心できるかだけでなく、言うことで、病院の患者に対する態勢も変わると思えるようになった。

つまり、このときから医者も看護士も自分もそれをとりまく人たちといっしょに治療にあたっていると思えるようになった。

 この放射線治療に通うための自転車での往復は、気分転換と適度な運動と気持ちをリフレッシュすることにもなった。

発汗を促すために、しょうがのたっぷり入ったお茶を飲んで、片道30分自転車をこぎ病院に向かい、放射線治療前にもこのお茶をたっぷり飲んで、肌がやけどの状態になるのを防いで、照射後また30分かけて自転車をこいで家へ帰る。(筋力がついたら20分ぐらいで帰れるようになった。)

往復一時間のこの毎日の運動は、車がなかったからこそ得られたのかもしれない。孫の誕生と放射線治療とどちらが先かとやきもきしながら通ったあの畦道や山を望みながらの農道が、懐かしく思い出される。

徳島では、「車社会」の一言で、行政の交通網の整備は遅れているように思う。運転できなくなったお年寄りがおきざりにされているまま、この一言で何もかも片付けられてしまうようだ。

東京のような区や市ごとの循環バスもないし、買い物や通院、どこかへでかけるとき、これから年をとってどうすればいいのかと思うこともある。

つづく
 

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乳癌 (2) 手術

 癌の切除手術をすると1月29日に決めてから、手術の予約がとれる最も早い日は2月27日と言われ、その日が手術日となった。

 2013年(平成25年)2月27日、そのときがやってきた。乳癌手術がこの日3件あり、前日までは、一番最初にやると言われていた。私の手術時間は一時間くらいで、あとの2人はそれぞれ2時間ぐらいかかるという。

 ところがなぜか順番がいちばん最後に変更になり、朝食をとってからは何も飲み食いできずにひたすら手術で呼びにくるのを待った。午前中に1人、午後の人が2時間くらいかかるのだから、まあ3時くらいかなと思っていたのに、着替えて準備をしても呼びにこない。朝からひたすらそれを待つだけほどいやなものはない。

最初だったらすでに終わっていたのにと思うとなおさらだった。

 4時頃だったのか、呼ばれて歩いて手術室まで行った。手術室に入る所の部屋で手術着を整え、手術室に入る時、付き添ってくれている夫や夫の両親が見えた。無意識に手を振っていた。

手術室に入ると、お医者さんなのかおじいさんが入口に座っていた。先の2人の手術で既に疲れ果てているのかと心配した。

手術台に寝て、手術について乳房温存か全摘かの確認があった。既に診察の時に写真を見せられ、温存するか全摘するか決めていた。どちらにしても存命率は変わらないということだったので、温存手術、つまりしこりはとるが乳房はそのまま残すことにした。

「温存」ということをはっきり告げようとするのだが、酸素マスクがずれている。一生懸命「マスクがずれている」というのだが、なぜかそれを聞いた先生は、「このマスクは臭いんです」という。ちんぷんかんぷんの受け答えが続いたが、何とか通じたようだった。だけど通じたと思ったらほっとして疲れがどっと出た。

麻酔を注入するという言葉を聞いたと同時に意識を失った。

 「和枝!和枝!」と夫の呼ぶ声で目が覚めた。気がつくと担架に乗せられ、手術室を出たところだった。

麻酔が覚めたと思ったら、激痛が走った。思わず「痛い!」と叫んだ。叫ばねばいられないほど、しこりをとったところは痛くないが、リンパを切除したところが痛い。

目が覚めたとたん、叫び続ける自体となったが、担架を押している看護士さんは、先生の指示がないと痛み止めの注射はできないと、先生を探す。しばらく手術室の前に放置される。結局先生が見つからないということで、そのまま病室に運ばれることとなった。

手術室から病室まで「痛い!」と叫びながらで、このときほど時間が長く思われたことはない。痛みと不安とで見放されたような、どうなるのかと思う気持ちだった。

 先生と連絡がとれたのかわからないが、部屋でその看護士さんが肩のところに痛み止めの注射をし、しばらくすると痛みが感じられなくなった。

ほっとしてはじめて「やっと終わった」と思った。それにしても術後の患者の変化にすぐに対応できる体勢をとってもらいたいと、このときほど思った事はない。

手術後、私がまだ手術室で麻酔から覚めずに居る時に、切除したしこりを見せられ、「この硬さは癌だ」と言われたと夫が話してくれた。

癌の手術は、長いこと入院するのかと思ったら、手術前日、当日、手術後合わせて3~5日ほどですむ。5日ほど入院した。

 退院して、まず手術したほうの腕が上がるのかが心配だった。

普通に手を上げることができた。安心した。翌日には、庭仕事も普通どおりできた。安心した。

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乳癌 (1) 発見から告知

 昨年は、徳島へ転居後、自宅の新築に結婚、新居への引越し(東京から藍住、名東町、国府町と三回)と、東京で生まれ育った私にとって、今までの人生にないぐらいのめまぐるしい一年でした。

 そして、新居への引越しも無事済ませて、ほっと一安心した2013年1月19日、お風呂にのんびりつかり、ふと胸に手をやると乳房に硬いしこりが触れ、今までにはない硬さに、ふといやな予感がよぎりました。

最新式のバスは、それまでのしゃがんで入るお風呂ではなく寝て入れるようになっており、寝そべった状態になって気がついたといえます。

本当にこの最新式バスに命を救われたと思っています。

まだ、徳島のことについてはどこに何があるのかも知らないときに、とりあえず病院を探して、1月21日乳腺外来に診察にいきました。

すぐ、マンモグラフィやレントゲン、エコー検査を受け、組織液を採取して検査に出し、29日に結果が出るということで、この日は帰りましたが、エコー検査のときのお医者さんの様子から、さらに不安は強くなりました。

 1月29日、検査の結果を聞きに、主人と主人の母とで行って、ほぼ90%そのしこりは癌と言われたのです。さらに脇のリンパにも転移しているかもしれないので、そのリンパ節を一部切除するかどうかの判断も迫られました。

癌と言われ、あまりのショックで、手術で癌の切除にはすぐに同意したのですが、リンパ切除の判断を即座にするのはどうすべきかと思いましたが、90%の確率に結局リンパ節の切除もするということで、手術日を予約して帰りました。

 この頃、のどやのどのリンパのあたりが痛く、花粉のせいなのかと思っていたのですが、なんだか阿波晩茶を飲み出してからすっかり具合もよくなり、本当に癌なんだろうかとも思うようになりました。

90%癌と言われても、「10%は違う可能性もあるはずだ」と、自分の気持ちの中では、癌ではない、いや癌だと思いたくない、認めたくない気持ちばかりが占めるようになっていったのです。

 やはり手術で組織を取って、調べてからにすればよかったのでは・・・・

90%癌だから二度手術するよりはと決めたことが悔やまれました。

癌であるかどうかは、そのしこりをとってから組織検査の結果で判明するということで、術後1週間から10日かかるといいます。

だんだん手術の日は迫り、そのための検査もどんどん行われていきます。癌かどうかもわからないのに、検査だけは、癌治療のためのレールに乗せられたように進んでいきます。そのたびに不安な気持ちばかりが取り残されます。

癌と言われたら、まず=死と思ってしまいます。初めてで経験したこともなく、知識もないまま事がどんどん進んでいく。このときは絶望の淵に突き落とされて、方向もわからず背を押されて進んでいくようです。

 しかし、センチネルリンパ節生検という検査の結果、やはり見張りリンパというリンパ節に転移しているということが確定しました。

組織をとって調べなければガンかどうかわからないけれど、これでほぼ癌と断定されたということでしょう。認めざるをえないと思われました。

徳島という右も左もわからぬ土地で、誰も知っている人のいない土地で癌になり、言い知れぬ不安と悲しみに襲われる中で、徳島の人と医療を信じるようと自分を納得させるばかりの日々。

 そして、2月27日。手術で癌を切除する日がやってきました。

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ブログ復活のお知らせ

  昨年来、ブログお休みしていましたが、あまり無理をしない程度にまた始めたいと思っています。

 徳島へ転居後、昨年は自宅の新築に結婚、新居への引越し(東京から藍住、名東町、国府町と三回)と、東京で生まれ育った私にとって、今までの人生にないぐらいのめまぐるしい一年でした。

 そして、2013年1月入浴中に乳房のしこりに気づき、乳腺外来での検査の結果、乳癌と言われました。

その経緯については、また書きたいと思いますが、それからの生活は、癌の切除手術と放射線治療、抗癌剤、ホルモン治療を受け、現在に至っています。

 というわけで、しばらくはあまりストレスを抱え込まないように、ブログも休んでのんびり過ごしたのですが、やっと抗がん剤治療も終わり、体の自由も利くようになったので、10月から書き始めるつもりでいたのです。

抗がん剤治療を終えたら行く事を楽しみにしていた中国地方への旅行。その旅行のことも含めてまた書き始めようと思っていたのですが・・・・・・

しかし、その旅行中に母の死を知り、急遽東京へ。母を見送って、帰ってからは、しばらく心の整理もつかぬまま暑い夏の間、ほっぽりっぱなしにしていた庭の伸びるがままになっていたコスモスを抜いて、ほとんど庭ですごす毎日が続きました。

 これからガーデニングも真冬はシーズンオフになり、家の中ですごすことがほとんどになります。

晴れている日は庭へ、雨の日や寒い日はブログを書く生活になるでしょう。

 「和順庭の四季おりおり」や新たに徳島で書き始めた「和順庭の阿波だより」を御愛読いただき、またブログを休んでいる間も励ましのコメントやメールをありがとうございました。

 「ツイートテレビ」以外は、パソコンは一切やめていて、時々ツイッターでリツイートするぐらいでしたが、また徐々にブログも書こうと思っています。

 アメリカの経済破綻をきっかけに、常に戦争を目論む輩たちのことや、国内の「秘密保護法案」の制定など、このまま行ったら心配なことばかりですが、とりあえずは私が経験した癌の闘病記について書いていきたいと思います。
プロフィール

和枝

Author:和枝
 高校教師をやめ、ガーデニングのブログを書くうちに、気づいた小沢問題の陰に潜むマスコミや検察の腐敗をブロガーたちと追究し、小沢一郎氏の無罪判決を得ることができました。

「和順庭の四季おりおり」と題したブログの時から御支持いただいた真実を追究する仲間や冤罪被害者の皆様に支えられ、市民メディア「ツイートテレビ」を立ち上げ、私も生まれ育った東京を離れ、「生活の党と山本太郎と仲間たち」に習い、心機一転、主人の郷里・徳島にてエネルギッシュで常に現実に向き合い情報発信する生活をしています。
 
 それに伴い「和順庭」と名づけた庭も徳島県へ引っ越しました。



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口座名 服部 和枝

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