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2 日航機墜落の真相は? * なぜ御巣鷹山へ行ったのか?




なぜ私が御巣鷹山へ行ったのかというと、最近この日航機墜落の原因について疑問視するブログが多くなっているからだ。

 そして、行ってみて発表されている事故原因と違うとすると  亡くなられた方々のためにも真相を究明せねばと思った。

 アメリカボーイング社の修理ミスということになっているが、実は日本の自衛隊のミサイル誤射によるものであり、自衛隊のミスを隠蔽するために救助隊を他の山に落ちたとの情報を流し、時間かせぎをしてすぐに救助に向かわせず、その間にミサイルなどの証拠をわからなくさせたというものである。

 実際に御巣鷹山へ行ってみてわかるのは、墜落現場となっていた尾根は、見晴らしがよく、ここに日航機が墜落したのなら、上空から飛行機やヘリコプターから見れば、すぐに発見できるということである。

 なおこの日航機の事故に関して、かなり詳しく書かれたサイトを見つけたので、ご紹介します。随時、そのサイトから引用させていただきます。
 そのサイトの先頭は下記で、この1051号

再現/御巣鷹山飛行機事故の真相(EJ第1051号)


から

賞賛されるべきスチュワーデスの沈着冷静さ(EJ第1079号)


まであります。

----------------------
 世間に出回っているこの事故の謎・疑惑

*公式的な事故原因である圧力隔壁破壊説に明らかにおかしい点がある
*日本側の救出部隊の動きがあまりにも遅かった
*救出隊を足止めした
*事故後すぐに現地に急行した在日米軍に日本政府が救出活動の許可を与えなかった
*ボーイング社の見解が事故直後と1ヶ月後とで大きく異なっていること
*ボイスレコーダーが非公開になっていること
*エンジンがバラバラになりすぎている
*乗客の遺体の損傷が激しすぎる
*事故直後に日航の技術者が現地入りしている
*何者かが偽装した捜索隊があった(?)
*生存者救出よりも先に自衛隊が事故現場から謎の物体をヘリで搬出していた
*墜落直後、4人の生存者の他にも生存者がいたのに死者は全員”即死”扱いになっていること
*ジャンボ機の部品にあるはずのないものが事故現場から発見されている(?)
*相模湾から見つかった垂直尾翼に衝突痕(オレンジ色付着)があった
*自衛隊が民間の救助隊を追い払った
*事故現場一帯を警察ではなく、自衛隊が支配していた
* 自衛隊所有の無人標的機の写真
http://cat.zero.ad.jp/~zak46939/_osutaka/osutaka5.html


 
墜落するまで




http://akiba.geocities.jp/hitumabusi6979/a-nittkouki.html

 
 1985年(昭和60年)8月12日午後6時24分、羽田発大阪行き日航123便(ボーイング747SR)機が、離陸してまもなく大島西方上空付近で機体の異常を訴え始めた。

以降、32分の飛行の後、午後6時56分すぎ、群馬県上野村の山中に墜落し大破炎上した。単独機の墜落事故では世界最大とされる。

当初は乗客・乗員524名全員が死亡したと思われていたが、女性4人が生存していた。
 
生存者の証言から、最後部では墜落直後かなりの人が生存していたと考えられている。

そのため、とりわけ正確な場所への到着に時間がかかり、地元猟友会・消防団の案内を無視した群馬県警、夜間降下命令のない自衛隊、在日米軍の援助拒否などの「現場到着・救出までの時間の空費」に批判が集中した(放射能汚染を警戒したことや命令系統の縦割りの問題もあったと見られる)。
 
事故原因を調査して1ヶ月、ボ社は1978年にしりもち着陸事故を起こした際の修理が不適切だったことを認めた。

運輸省航空事故調査委員会(事故調)は「ボ社の不適切な修理によって圧力隔壁が金属疲労で弱体化し機外に噴出、油圧装置や垂直尾翼が破壊されて操縦不能になった」と結論付けた。

その際、機内に急減圧が発生したとされるが、CVR記録や生存者の証言から急減圧が発生したのかについて当初から疑問を持つ声が多く、この結論に疑問を持つ専門家や遺族らは再調査を求めている。検察は業務上過失致死で捜査をしたが、「刑事責任を問うのは困難」として不起訴処分とした。



8月12日事故発生から救助まで

18時24分 ドーンという音が発生

18時25分 123便、東京ACC(東京航空交通管制部)にEMG(緊急遭難信号)を報告。東京ACC、123便の羽田帰還要求を承認

18時25分 空自峯岡基地第44警戒郡123便をレーダーで確認

18時27分 東京ACC、123便に緊急事態宣言を再確認。東京ACCの「どのような緊急事態か」の問いに対し123便は沈黙

18時28分 123便から「操縦不可能」と伝えられる→羽田空港航務課に航空機救難調整本部(RCC)が置かれ、緊急着陸の準備が始まる

18時30分 米空軍C―130H輸送機、123便のEMGを傍受

18時31分 日航オペレーションセンターに緊急連絡

18時40分頃 東京ACC、横田基地へ緊急着陸準備を連絡する。嘉手納基地から横田基地へ向かう途中の在日米軍所属C-130輸送機が123便緊急事態発生の無線を傍受

18時56分 123便、「御巣鷹山の尾根」に衝突する

18時56分2秒123便のレーダー機影消失。横田基地、C-130に捜索を依頼

18時57分 峰岡山基地の吉田勝一尉123便消滅を中部航空方面隊司令部防衛部長の大中康夫一佐を通じて松永貞昭司令官に伝達「北緯36度02分東経138度41分」

18時59分 羽田の航空機救難調整本部(RCC)123便消滅情報入手。その報は救難調整本部、自衛隊、警察庁外勤課、海上保安庁警備救難課、運輸省航空局管制保安部運用課に流される

19時1分 大中一佐、松永空将の了解を得てスクランブル発信命令。空自、自衛隊レーダーサイトの提案を受けて茨城県百里基地から捜索任務のため2機のF-4EJ戦闘機(第305飛行隊=式地豊司尉ら)が緊急発

19時13分 時事ファックス「東京発大阪行きの日航123便がレーダーから消えた」の至急報

19時15分 米空軍C―130H輸送機、雲の下に煙を発見

19時19分 C-130H、墜落現場を発見「1919 Large fire from Yokota, 305, 34.」(午後7時19分、横田から方位角305度方向、34マイルの地点で大きな火災を発見)

19時21分 空自百里基地のF-4EJ2機も墜落現場を確認「炎を確認。横田タカンから300度、32マイル」

19時26分NHK、事故の速報を流す

19時30分 中村守雄陸上幕僚長、東部方面総監部(増岡県総監)に災害派遣要請

19時35分 長野県警警備二課に日航機墜落事故総合対策室設置。事故に関する情報の収集を各警察署に指示。 臼田署が南佐久郡北相木村を中心に捜索を開始

19時45分 運輸省航空局長室に「JAL123便対策本部」が設置。藤波官房長官が首相官邸に戻る

19時47分 中曽根首相が軽井沢から公邸に戻る

19時50分 長野県警警備2課内に日航機墜落事故対策連絡本部、臼田署に日航機墜落事故対策本部、北相木村役場内に日航機墜落事故現地指揮本部が設置される

19時54分 空自百里救難隊のV-107ヘリ、正確な位置のため発進。災害派遣出動要請なし ※20時33分に災害派遣要請が出る

19時58分 空自百里MU2S発進

20時00分 群馬県警警備2課に日本航空機行方不明事故対策室が設置される

20時16分 政府対策本部の設置決定。日本アイソトープ協会から「事故機に医療用ラジオアイソトープ(放射性物質)が92個積載されていた」と警察庁に届け出がでる

20時21分 長野県と群馬県の県境にあるぶどう(武道)峠より200メートル群馬県側に入った長野県警臼田署のパトカーから「埼玉県と群馬県境あたりに黒煙が見える」との通報が長野県警本部に入る(地上からの最初の公的目撃報告)。長野県警、ぶどう峠・三国峠(ぶどう峠の南東方向・埼玉県、長野県の県境)付近で捜索・聞き込みを始める

20時30分 米空軍C―130H上空旋回、同空軍UH1救難ヘリを誘導。朝日新聞社のヘリ「ちよどり」羽田発進

20時30分すぎ日航対策本部に高木社長ら役員がそろう

20時33分 羽田の航空機救難調整本部(是枝孝空港長)から航空自衛隊中部航空方面隊司令部(入間)に災害派遣が要請される ↓
20時40分 中空司令松永空将、入間基地を非常召集、30人を先遣隊として出発

20時40分ごろ防衛庁内に対策本部が設置

20時42分 航空自衛隊百里救難隊のV-107ヘリが墜落現場上空に到達。「150~200メートルにわたって山腹炎上、位置は横田タカンから299度、35.5マイル」と報告

20時50分 厚木米海軍航空隊基地からの海兵隊救難チームがUH-1ヘリで墜落現場上空に到着。墜落現場付近に海 兵隊員2人をラペリング(ロープを使った垂直降下)で降ろそうとするが横田基地司令部からの帰還命令(理由は「日本の救助隊が現地に向かっているから」)を受け中止。それまで上空で旋回していたC-130と共に基地へ帰投

21時0分 長野県警、群馬側と確信。群馬県警。上野村の藤村輔二郎猟友会会長に道案内を依頼

21時6分 朝日ヘリ「ちよどり」が墜落現場上空に到達 

21時10分 朝日ヘリ 「ちよどり」、現場撮影

21時20分日航、搭乗者名簿を発表。この間羽田東急ホテルに乗客の家族が集まる

21時25分 「日航救援隊」(日航現地派遣団)がバスで羽田を出発。しかしお盆の帰省ラッシュに巻き込まれる
↓ 
21時25分 「ちよどり」現場計測「羽田から304度方向60マイル群馬側」 

21時30分 群馬県警警備2課の日本航空機行方不明事故対策室、日本航空機行方不明事故対策本部に切り替え。陸上自衛隊に災害派遣出動要請が出る。12偵察隊、13連隊情報小隊が出動。航空自衛隊熊谷基地から地上部隊の先遣隊10人が出発 

21時30分 是枝空港長、東部方面総監部に災害派遣要請。陸自第12偵察隊(相馬原)と第13普通科連隊情報小隊(松本・小川二尉)計14名出発。読売ヘリ127号機、現場撮影

21時39分 長野・埼玉遼県警パトカー、三国峠西北西で赤い煙発見。NHK―TV「御座山中腹で煙を見た」とぶどう峠からの目撃談を報道→日航・警察に通達され、御座山へ移動開始 

21時50分 NHKが目撃証言として北相木村の御座山(長野県)に落ちたと報道。その一方で長野、埼玉両県警のパトカーが目撃情報から墜落地点は群馬側と判断する 

21時50分 空自百里MU2S現場写真撮影 

21時56分 自衛隊空幕が運輸省に運用課に峯岡山のレーダーから消滅した「北緯36度02分東経138度41分」の位置→御座山北斜面」と連絡

21時59分 自衛隊空幕が運輸省運用課へ「千葉県嶺岡山のレーダーから消えた位置は北緯36度2分、東経138度41分」と連絡する。「墜落現場の位置は長野県北相木村の御座山北斜面に確定した」という情報が自衛隊、日航、警察庁、長野県警に流され、現地付近で捜索していた警察は御座山へ移動

22時03分 NHK―TV「御座山北斜面で炎上中」と報道。日航も「御座山北斜面」と正式に発表 

22時05分 朝日「ちよどり」羽田格納庫で墜落地点の計測「三国山の北方5km群馬側」

22時15分日航職員の現地派遣団第3陣が羽田を出発 

22時30分 政府対策本部が設置される 

22時50分 日航、札幌・大阪地区にも対策本部を設置。朝日「ちよどり」羽田発進再度現場へ 

23時00分 首相官邸で政府対策本部の第1回会合現場未特定。群馬県警、上野村山間部の小倉山付近の民家に対して聞き込みを開始。群馬県警、上野村に1000人投入通知 

23時30分 長野県警「現場は群馬と特定している①御座山で残骸見つからず②上野村のほうへ飛んでいったby菊原孝雄氏」と報告。群馬県警「北偉36度02分東経138度41分by自衛隊」を頼りに船坂山東側の「マムシ岳」付近の捜索開始→群馬県警機動隊、御巣鷹山方面に向かって捜索を始める 

23時35分 朝日「ちよどり」現場到着 

23時45分 防衛庁に「御座山ではなく群馬県側の可能性」の情報が入る 

8月13日

0時00分 警視庁機動隊員200人と埼玉県警機動隊員222人が群馬県警に到着する

0時5分 防衛庁で山下徳夫運輸大臣主宰の第一回日航機事故対策会議が始まる。航空自衛隊のMU-2救難機及びV-107ヘリが再度出動する

0時36分 群馬県警、上野村役場に現地対策本部を設置。出動人員は他県からの応援を含んで1086人になる。空自入間V-107ヘリ(金子正博一尉)発進

1時00分 空自V-107墜落現場上空に到着し、位置を計測。「入間から291度、36.3マイ ル」と報告→長野県警のパトカー誘導をするも現場確認できず失敗。空自静浜から115人が基地出発

1時5分 羽田東急ホテルから乗客の家族300人を乗せた第1陣のバスが長野県小海町の日航現地連絡本部に向けて出発

1時15分 空自入間本隊548人が基地から出発

1時30分 陸上自衛隊第13普通科連隊情報小隊・第12偵察隊が北相木村に到着、御座山北斜面の捜索開始。中空司令部、空幕運用課に未確認情報として「ぶどう峠から210度3マイル御座山南斜部から1キロ」と連絡

1時35分 日航派遣団第1陣が長野県南牧村到着、北相木村に入る 

2時00分 市ヶ谷の東部方面総監部から陸上自衛隊大宮駐屯地の科学学校に災害派遣準備命令が下る

2時00分空自熊谷本隊91人が基地から出発

2時15分 朝日新聞最終確定版「群馬・長野県境で炎上」、読売新聞「御巣鷹山(群馬・長野県境)付近に墜落」の見出し

2時20分 防衛庁、在京社会部に電話で御座山南斜面頂上から1キロ」と連絡←ホントかよ・・・

2時30分 羽田の捜索救難調整部(RCC)から海上保安庁運用司令室に「ドアがはずれた場合乗客が機外に吸い出される可能性がある」と通報。その情報 は第3管区海上保安部に伝えられ、駿河湾で行動中だった巡視船「おきつ」・下田港にいた「まつうら」・清水港の「しずかぜ」が捜索を
開始

2時37分 陸自立川HU1、映像伝達装置付で相馬原へ向かう 

3時4分 群馬県警機動隊、船坂山南・中ノ沢林道行き止まり地点から長野県境へ向けて捜索を開始

3時25分 北相木村役場に日航現地派遣団の藤野団長が到着、長野県警と対策を協議する。陸自第13連隊の本隊第12戦車大隊、第12施設大隊到着、第12師団長・合原陸将「夜明けを待って行動開始」決定・陸幕了承する

3時30分  空自先遣隊10人北相木村到着 

3時40分 日航現地派遣団、北相木村役場内に現地対策本部を設置

3時45分 NHK―TV「御座山南斜面」と報道する 

3時49分 陸自立川HU1、映像伝達装置付で相馬原へ向かう 

3時50分 空自入間先遣隊北相木村小学校到着 

3時56分 空自V-107ヘリが入間基地を離陸する

3時59分 陸自OH6が駐屯地発進 

4時30分 北相木村役場付近に集結していた自衛隊約700人がぶどう峠から東へ移動する。朝日「ちよどり」三度羽田発進。地元消防団の一部が墜落現場に向かう 

4時39分 防衛庁発表「V―107三国山西約3キロ、扇平山北約1キロ」、V-107ヘリ、墜落現場上空に到着し123便の残骸を発見 

4時50分 科学技術庁「アイソトープは人体に支障なし」と発表
4時50分 空自入間本隊548人が基地から出発

4時55分 陸自立川HU1「三国山北西約2キロで機体視認」

5時5分 群馬県警藤岡署から藤岡市総務部長の自宅に遺体収容所や家族待機所の提供要請が入る 

5時10分 防衛庁発表「御座山東方約5㎞」。陸上自衛隊のOH-6ヘリが墜落現場を確認

5時33分 V-107ヘリの「三国峠の340度3~4キロ3㎞で機体確認」と報告 

5時37分 長野県警のヘリ「やまびこ」が墜落現場を確認する。「御巣鷹山南南東約2㎞、県境から東方に700m。現場は群馬県側」と報告 

5時40分 空自熊谷本隊91人北相木村役場到着

5時45分 陸上自衛隊第12師団の発表「御座山東7㎞、南4㎞の地点に白い尾翼発見。さらに500メートル離れたところに黒こげ物体発見。12師団は1000名出動。長野県警の発表「御巣鷹山南南東2㎞、県境の東700mのところに墜落物体発見」。上野村消防団員に出動命令が流れる
↓ 
5時50分 空自百里RF4E偵察機2機、写真撮影で発進 

6時15分 陸自立川HU―1東部方面総監部に映像伝達

6時30分 陸自東部方面総監部に現場の画像が届く→ラペリング=垂直降下(地面に垂直なロープによって人員を降ろすこと)で降ろすことに決定、習志野駐屯地第1空挺団の編成開始
↓ 
6時40分 空自静浜115人北相木村小学校到着 

6時50分 日航対策本部に「遺体は群馬県側に下ろした方が得策」と現地派遣団から連絡が入る

7時00分 群馬県警機動隊40人が上野村猟友会会長の案内で本谷林道から現場へ向かう。上野村消防団の全8分団も中ノ沢と本谷の2つの林道に分かれて現場に向かう。松本連隊情報小隊14人が長野県側から入山する

7時10分 海上保安庁、航空機で海上捜索 

7時30分 日航対策本部に「遺体は群馬県側に下ろす。検死は上野村小学校で行い、遺体の安置は藤岡市民体育館、遺族休憩所は安置所付近」と警察庁の指示 ※結局全て藤岡市民体育館になった

7時54分 習志野第1空挺団(重高昭教一佐)73人ヘリで発進 

7時55分 長野県警ヘリ「やまびこ」に乗り込んだ長野県警レスキュー隊の隊員2人が現場から2,3㎞下流の沢にロープを使って降下

8時35分 警視庁ヘリ「おおとり」上野村からレンジャー8人乗せ現場へ

8時49分 第1空挺団、墜落現場に直接ラペリング降下を開始

9時00分 山下運輸大臣による第2回対策会議 

9時25分 長野県警レスキュー隊の2人が水平尾翼の落下現場に到着する 

9時30分 第1空挺団、陸幕に「降下地点、目下生存者なし」と報告。上野村消防団第5分団が墜落現場に到着。松本連隊情報小隊14人が墜落現場直前に到着

9時48分 藤岡公民館に日航対策本部が設置される

9時54分 第1空挺団73人の降下が完了 

10時00分 政府第二回対策本部会議 

10時15分 群馬県警機動隊が墜落現場に到着 

10時15分 立命館大学の深井教授一行4人が墜落現場に到着

10時20分 警視庁ヘリ「おおとり」のレンジャー部隊8人、遺体捜索 

10時40分 長野県警レスキュー隊の2人が墜落現場に到着する。スゲノ沢に降りる途中に上野村消防団5・6人と合流

10時40分 空自YS―11、現場上空で管制活動 

10時45分 第12師団第3次偵察部隊(関根貞夫二尉、小林幹夫一曹)の2人と第1次隊の2人が墜落現場に到着 ※報道陣らも「参入」

10時54分 長野県警レスキュー隊員が生存者を1人発見 

11時00分 第12師団偵察部隊、上野村消防団と合流し上方の空挺団に生存者発見を連絡 

11時3分 長野県警レスキュー隊員が生存者を2人発見 

11時5分 長野県警レスキュー隊、猟友会・上野村消防団が生存者を1人発見

11時30分 現場からのテレビ生中継が始まる。日航現地本部、北相木村から上野村へ移動 

11時45分 政府対策本部から日航に「運輸大臣、航空局管制保安部長、官房副長官らが現地に向かう予定」と連絡が入る

12時30分 日赤の医師1人、看護婦3人がヘリコプターで墜落現場の尾根に到着、生存者の応急処置を開始 

12時45分 運輸省から日航に「事故調査委員会12人をヘリで現地に派遣する」と連絡が入る 

13時29分 生存者4人の自衛隊ヘリつり上げ収容開始 

13時40分 高木日航社長が藤岡市公民館現地対策本部に到着する 

14時8分 生存者2人(吉崎博子さん、落合由美さん)を乗せた自衛隊のヘリがが藤岡市立第1小学校のグラウンドに着陸 

14時12分 生存者2人(川上慶子さん、吉崎美紀子さん)を乗せた東京消防庁のヘリがが藤岡市立第1小学校のグラウンドに着陸 

14時13分 先の生存者2人が多野総合病院に着く。後の2人も同じ病院に搬送され応急手当が始まる 

15時21分 川上さんが国立高崎病院に移送される

16時15分 遺体安置所が第1小学校体育館と藤岡市市民体育館に変更 

17時00分 山下運輸相、藤岡北中学校で遺族に対し陳謝。運輸省航空事故調査委員会、13日の調査を実施しないことに決定
 

 
 この救助が遅れたことについて、このように書かれているブログがあります。

自衛隊はなぜ米軍の救助を断ったか(EJ第1062号)



http://intec-j.seesaa.net/article/53856463.html



2007年09月04日
●自衛隊はなぜ米軍の救助を断ったか(EJ第1062号)
 1994年9月25日のことです。テレビ朝日「ニュース・ステーション」では「米軍幻の救出劇」と題して、御巣鷹山日航機墜落事故関連の番組を放映しています。
 
1985年8月12日当日、沖縄嘉手納基地から横田基地に帰投中の米軍C-130輸送機は関東南A空域にさしかかっていたのです。

そのとき、同機のマイケル・アントヌッチ航法士(ナビゲーター)は、横田基地からJAL123便の探索命令を受けたので、一帯を捜索した結果、午後7時30分前にJAL123便の墜落現場を確認しています。


番組では、マイケル・アントヌッチ航法士が次のようにいっています。
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       あたりはちょうど夕暮れだったが、地面はまだ見える明るさ
      でした。燻る機体も炎も見えた。  ――アントヌッチ航法士
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 米軍C-130のジョン・グリフィン機長は、JAL123便の残骸の上空600メートルで旋回飛行をし、横田基地からの位置を測定し、20分後には正確な墜落場所の位置を横田基地に知らせているのです。
 
 午後8時30分になって、横田基地からC-130に再び連絡が入り、「60キロ離れた米陸軍キャンプ座間から救難ヘリUH-1が、そちらに向かっている」と知らせてきたのです。
 
やがて救難ヘリUH-1は飛来し、乗員2人を下ろそうとして木の梢から15メートルのところまで降下したのです。

そのときC-130に横田基地からいきなり「直ちに基地に帰還せよ」という命令が入ったのです。
 
しかし、ヘリは「救助に入りたい」――と連絡。これに対して、横田基地の司令官は「日本側の救助隊が向かっている。

繰り返す直ちに基地に帰還せよ」と短兵急に帰還を命じたのです。

時刻は午後9時20分――地上に降りかけていたヘリの乗員も再びロープを登ってヘリに戻り、救難ヘリも去っていったのです。

そしてC-130は横田基地に帰還するのです。
 
横田基地で待っていたのは、第316戦術航空団のジョエル・シルズ副司令官――グリフィン機長が報告を終えると、シルズ副司令官は「良くやった。

しかし、このことは一切マスコミには話してはいけない」といったといいます。
 
 このヘリの音を生存者の落合由美さんは聞いており、次のようにいっています。
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       やがて真っ暗闇のなかに、ヘリコプターの音が聞こえたので
      す。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていまし
      た。それもすぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で 右
      手を伸ばし、振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん、
      遠くに行ってしまうんです。このときもまだ何人もの荒い息遣
      いが聞こえていたのです。 ――――――― 落合由美さんの証言
---------------------------------------
 このように、1994年9月25日の「ニュース・ステーション」は、日本側の都合による米軍救援活動中止要請が事実であることを報道しています。何ということでしょう。

米C-130は午後7時30分に墜落場所を特定し、20分後には横田基地に正確な墜落場所を知らせているのです。もちろん日本側にもその時点で伝えられています。
 
 それなのにテレビでは、次の日の朝まで墜落場所を特定できていないと報道しているのです。これは明らかに意図的です。

加藤紘一防衛庁長官(当時)にいたっては、12日の夜に墜落場所の上空までヘリで飛来しながら救援を指示せず、次の日の朝まで放置したのです。
 
 C-130の航法士、マイケル・アントヌッチ氏は『週刊文春』1995年9月28日号でも次のようにいっています。
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       あの飛行機事故のことは、10年経った今も脳裏に焼き付い
      て離れない。JAL123便が管制塔に『緊急』を告げたとき
      たまたま近くを飛んでいた。

       現場はすぐに確認できた。墜落2時間後には、アメリカ海軍      (陸軍?)の救助ヘリが着いた。

      あの時、ストップがかからなければ、もっとたくさんの人が助か      っていたに違いない。日本の救援隊が現場に着いたは、その14      時間も経ってからというではないか。 ――『週文春』1995年      9月28日号より。
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 これに対して防衛庁は、米軍ヘリが墜落現場上空に到着し、救助寸前であったことについて次のように否定の見解を示しているのです。
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       「米軍ヘリが現場上空に飛来した事実は認められない」
                        ―――― 防衛庁
       「当時の記録がないので、ノーコメント」
                      ―――― 米国防総省
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 そのうえ、自衛隊の松永貞昭中部航空方面司令官(当時)は次のようにコメントしているのです。
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       「夜間でしかも急斜面への降下は自殺行為である」
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 これに対して、米陸軍救難ヘリのスタッフは次のように反論しています。
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       「陸軍のヘリにはサーチライトはもちろん、1980年代
       から、夜間暗視装置を標準装備しており、夜間でも急斜面
       でも、救急隊員であれば、だれでも降下できる」
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 その頃、墜落場所付近では奇怪なことが起きていたのです。
                  ・・・[御巣鷹山事故の謎/12]



 
007年09月03日

●墜落場所は早くからわかっていた(EJ第1061号)

 
 JAL123便を御巣鷹山に誘導した2機の自衛隊機の存在はこの件に関するマスコミ報道では完全に伏せられています。

しかし、この2機の自衛隊機を目撃した人物がいます。その人物とは、角田四郎氏といい、事故当日大月付近でキャンプをしていて目撃したというのです。

後になって、角田氏は、JAL123便事件解明のため『疑惑/JAL123便墜落事故』という本を出しています。この本から、角田氏自身の目撃状況をご紹介します。
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       このとき私は日航123便を目撃していた。[山梨県大月市
      と神奈川県相模湖の中間地点の]東から南へ、南から西へ旋回
      しようとする地点である。18時42分頃になる。
       
       そして、44分か45分頃、ループ飛行を終えて東へ向かっ
      たであろう頃の日航機を追うように、東へ向かう2機の自衛隊
      機を私は見た。
       
       その時また飛行機が見える。木の間に見え隠れしていたが、
      私は「エッ」と驚きの思いで立ち止まって見つめた。しかし、
      今度はごく小さな機影で、北西に向かって夕焼けの中をどんど
      ん小さくなってゆく。

       「あれはさっきの飛行機[JAL12便]じゃないな」と思       い、ふたたびバンガローへの坂道を登ていった。この間5~6分      の出来事である。――角田四郎著、
         『疑惑/JAL123便墜落事故』より。早稲田出版刊
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 2機の自衛隊機の目撃情報は角田氏だけですが、防衛庁側はこれに対して何もコメントしていません。

自衛隊機がこの付近の空を飛んでいても別に不思議ではないからです。

角田氏自身もあとでJAL123便の墜落を知って、自衛隊機とJAL123便とをはじめて結びつけたのです。

ところで自衛隊機はどのようにして、JAL123便の進路を変更させたのでしょうか。
 
 自衛隊機は無線で直接JAL123便と交信して旋回するよう指示したか、あるいは、航空基地を経由しての交信により横田基地に着陸しないよう伝えたはずです。
 
 おそらくJAL123便の機長は、あくまで横田基地着陸を訴えたはずです。機長が当初「羽田に戻りたい」といったのは、羽田空港の方が、救急医療体制が整っているからです。

 いずれにしても、まともな着陸はできないと考えていたのでしょう。
 
 しかし、機を完全にコントロールできないこともあり、この時点では横田基地しか選択肢はなかったはずです。とにかくボイスレコーダには、自衛隊機とのやりとりは記録されていないので、推測するしかないのですが、もしかしたら自衛隊機の指示を拒否したことも考えられます。
 
 このことを裏付けるようにJAL123便は横田基地に向けて高度を下げつつあったのです。そこで、自衛隊機はJAL123便の前方に出て、飛行進路を遮断するなど妨害し、埼玉・長野・群馬の県境の山岳地帯に向かうよう強引に左旋回飛行指示を出しているのです。
 
 これに対して、JAL123便の機長は、あくまで「ターンライト」を主張して抵抗しています。しかし、結局、横田基地から北方向に向かわされ、御巣鷹山に入っていくことになります。この2機の自衛隊機の存在を肯定すると、JAL123便はエンジンの出力調整によって何とか左旋回できたことになります。
 ここで奇妙なことは、JAL123便は何者かにミサイルなどで攻撃され、垂直尾翼を破壊された「被要撃機」になっているという事実です。
 
 この場合、既に述べたように、自衛隊による日本の防空上の規定では、スクランブルをかけられた領空侵犯機と同じ扱いになることです。もし、領空侵犯機がスクランブルをかけた軍用機の指示に従わないときは、攻撃してもよいことになっているのです。
 
 このようにして、JAL123便は、2機の自衛隊機によって御巣鷹山のある山岳地帯に入っていくのですが、どのようにして墜落したのかについては、あとで明らかにするとして、墜落直後の状況について述べることにします。
 
 墜落事故のあった1985年8月12日――私は今でも鮮明に覚えていますが、テレビでは夕方から大騒ぎになり、安否を気遣う乗客の家族や知人が続々と羽田の日航の事務所に押しかけて、ごった返していたのです。
 
 しかし、JAL123便の行方はわからず、つねに日航側の発表は「捜索中」の繰り返しだったのです。私は13日の午前2時頃まで起きていて、テレビを見ていましたが、とうとう朝になるまでわからなかったのです。
 
 しかし、今となって考えると、これは実に奇妙な話なのです。というのは、JAL123便は墜落直後からその場所は特定されており、自衛隊機をはじめ、米軍機もその墜落地点の上空までは行っているからです。
 
 当時の防衛庁長官であった加藤絋一氏は、当日夜、救難ヘリコプター・バートル107で現場上空に飛んでいるのです。

 これを受けて防衛庁では13日の午前0時5分から、緊急会議を開いています。出席者は、加藤長官以下、内局幹部、陸幕長、空幕長です。ですから、加藤長官はそれ以前の時間に――午後9時頃ではないかと考えられますが、墜落現場の上空までヘリで視察しているのです。しかし、少なくともそのとき、乗客・乗員の救助は行われていないのです。
 
 もちろんその間テレビでは相変わらず「捜索中」が繰り返されていたのです。なぜ、発表しないのでしょうか。

 なぜ、墜落場所が特定できていたのに、なぜ、いち早く救助に向かわなかったのでしょうか。
 
 こういう問いかけに防衛庁、政府関係者は完黙の構えです。だからこそJAL123便の墜落事故に自衛隊が深くコミットしていたと考えざるを得ないのです。
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プロフィール

和枝

Author:和枝
 高校教師をやめ、ガーデニングのブログを書くうちに、気づいた小沢問題の陰に潜むマスコミや検察の腐敗をブロガーたちと追究し、小沢一郎氏の無罪判決を得ることができました。

「和順庭の四季おりおり」と題したブログの時から御支持いただいた真実を追究する仲間や冤罪被害者の皆様に支えられ、市民メディア「ツイートテレビ」を立ち上げ、私も生まれ育った東京を離れ、「生活の党と山本太郎と仲間たち」に習い、心機一転、主人の郷里・徳島にてエネルギッシュで常に現実に向き合い情報発信する生活をしています。
 
 それに伴い「和順庭」と名づけた庭も徳島県へ引っ越しました。



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